見出し画像

十字架の贖いだけでは不十分なのか

はじめに

私たちは、十字架のあがなによってゆるされました。

ただそれだけで、私たちは救われ、天国に入れるのではないでしょうか。

多くのクリスチャンが、そんな疑問を持ったことがあると思います。

これについて、聖書はどう教えているでしょうか。

とても大切なことですから、慎重に確認してみましょう。

あがないだけで十分である

聖書は次のように教えています。

ローマ人への手紙
3:24 彼らは、価なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

口語訳聖書

あがないだけで十分です。私たちが支払うものは何もありません。
神の恵みにより、あがないによって、私たちは義とされるのです。

しかし、ここで注意してください。

「義とされる」のであって、「義と認められる」のではありません。
(新改訳聖書はこの箇所を誤訳しています)

「義とされる」これが原文の教えです。
すなわち、義とみなされるのではなく、私たちは本当に義人に変えられるのです。

義人に変えられる

聖書は、あがないによって、私たちの「罪」が取り除かれることをはっきりと教えています。「罪の刑罰」ではなく、「罪」そのものです。

ヨハネの手紙 第一
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。

もう、惑わされないでください。
義を行う者が義人なのです。
そうなっていないなら、恵みを受けてはいないのです。

義を行う者

現代、多くのクリスチャンが「行い」を毛嫌いするように誘導されています。
これにだまされてはいけません。

なぜなら「行いを土台としなさい」というのがイエス様の教えだからです。

ルカの福音書
6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

幼子でもわかる、簡単な教えです。
間違った教えは、私たちから簡単な国語力さえ奪ってしまうのです。
この恐ろしさに気づかなくてはなりません。

癒やしを信じましょう

しゅは、多くの人を癒やされました。
「起きて歩け」この言葉を聞いた人は、歩くことができない人でしたが、信じて歩いたのです。

私たちも、信じて行うなら、自分でできなかったことができるようになるのです。
すなわち、義を行えなかった私たちが、罪を離れ義に生きるようにされるのです。

これこそが、十字架のあがなであり、癒やしなのだと聖書は教えます。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

おわりに

十字架のあがないは完全であり、この恵みだけで私たちには十分です。

問題は、私たちが信じてこの恵みを受け取っていないことです。
信仰が足りないのです。

「義と認められるだけ」「ゆるされるだけ」そのように考えるなら、けっしてこの恵みを受け取ることはできません。
間違った教えから抜け出し、信じて歩き始める必要があるのです。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

聖書の正しい教えを信じ、聞いて行う人だけが、この恵みを受け取れます。

間違った教えから抜け出して、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。