見出し画像

「現代の教会に当てはめてはいけない」という教え

はじめに

次のような言葉が、現代の教会でよく聞かれます。

「聖書に書かれたことは、
 誰に向かって語られたかが重要なのであって、
 それを現代の教会に当てはめてはいけません」

もちろん、誰に向かって語られたのかを悟ることは重要です。
しかし、それを現代の教会に当てはめることは、本当に間違っているのでしょうか。

聖書から慎重に確認してみましょう。

耳のある者は聞くがよい

聖書には、「耳のある者は聞くがよい」という言葉が何度も出てきます。

マタイの福音書
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
13:43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい

なぜそう書かれているのでしょうか。
それは、これが世の終わりに関わることであり、世の終わりに臨んでいる私たちこそ、耳を傾ける必要のある言葉だからです。

ヨハネの黙示録
2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。

ヨハネの黙示録
2:11 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

これらの言葉は、エペソやスミルナにある教会の御使いに書き送られた言葉です。
しかしその本来の目的が、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒であることは、誰の目にも明らかです。

世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒

コリント人への手紙 第一
10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

「それが書かれたのは、世の終りに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである」とはっきり書かれています。

聖書の出来事は、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒だったのです。

ルカの福音書
17:27 ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう
17:31 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
17:33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。

このように聖書は、むしろ「現代の教会に当てはめろ」と教えているのです。

なぜ、現代の教会に当てはめるなと教えるのか

「現代の教会に当てはめてはいけない」
その発言は、
「救いの方法は時代によって異なる」
「今は信じるだけの時代だ」

という神学を擁護するために使われます。

たとえば次のような聖句は、今ではもう無効であるというのです。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

しかししゅは、わざわざ「天地が滅び行くまでは」と言っておられます。

これらの聖句を否定する人々は、
「旧約時代の人々は律法によって救われ、
 新約時代の人々はキリストの恵みによって救われる」
と教えます。

本当でしょうか?

それなら天国には、
「律法によって救われた人」と、
「キリストの恵みによって救われた人」の、
二種類の人々がいるのでしょうか。

絶対にそんなことはありません。

ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

使徒の働き
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

今も昔も、救いの方法は変わっていません。
律法を行うことによって救われた人は一人もおらず、
律法を守らない人も、天国には一人もいないのです。

律法の役割

律法が私たちに義を与えるのではありません。
律法は、私たちにとは何かを教え、治療の必要を悟らせるためにあるのです。

まずはこのことを覚えてください。
とは、律法に違反することです。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

そして聖書の教える「救い」とは、「罪からの救い」にほかなりません。

マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

ゆえに、律法に逆らっている人は、罪から救われていません

ヨハネの福音書
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である

ここで考えてみてください。
その人は、どうして今も罪の奴隷なのでしょうか。

それは、律法に従おうとしないからです。また、律法を守れるように、キリストに頼ることをしないからです。

律法を守りたいと願わない人に、治療は与えられません。
ただ、罪から逃れたい人だけに、救いの手が差し伸べられるのです。

マルコの福音書
2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

このように、私たちの救いは「罪のやまいを癒やしてくれる医者を信じる信仰」によって実現することを覚えてください。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

当時は、動物の犠牲によって、このことが表されてきました。
そして今は、十字架で流されたキリストの血によって、これが実現するのです。

ねじ曲げられてきた真理

「それは当時の人に言われたことだ」この一言で、どんな教えでもねじ曲げることが可能です。

マタイの福音書
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

「これは昔の人々に言われたことなので、今は姦淫かんいんしても構いません」そう言うのでしょうか。

そのような人は、終わりの日、次のように言われてしまうでしょう。

マタイの福音書
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

絶対にそうなってはいけません。
聖書は、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒として書かれていることをしっかりと覚えてください。

おわりに

「現代の教会に当てはめてはいけない」
そうやって、聖書の教えが次々と廃棄されている時代です。

もう、そんなことを続けてはいけません。
聖書の教えは、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒として書かれているのです。

特に今、この時代のクリスチャンが真剣に考えるべきことがあります。
それは十戒じっかいについてです。

十戒じっかいは、本当に昔の人だけに与えられた教えなのでしょうか。

「もう殺してよい」
「もう姦淫かんいんしてよい」
「もう神の御名みなをみだりに唱えてよい」

それがイエス様の成し遂げた救いでしょうか。

「天地が滅び行くまで」とは何でしょう。
「一点、一画も廃れない」とは何でしょう。
「最も小さい戒めの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者」とは誰でしょう。

どうか、聖書の言葉に耳を傾けてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

ローマ人への手紙
15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)