はじめに
次のような言葉が、現代の教会でよく聞かれます。
「聖書に書かれたことは、
誰に向かって語られたかが重要なのであって、
それを現代の教会に当てはめてはいけません」
もちろん、誰に向かって語られたのかを悟ることは重要です。
しかし、それを現代の教会に当てはめることは、本当に間違っているのでしょうか。
聖書から慎重に確認してみましょう。
耳のある者は聞くがよい
聖書には、「耳のある者は聞くがよい」という言葉が何度も出てきます。
なぜそう書かれているのでしょうか。
それは、これが世の終わりに関わることであり、世の終わりに臨んでいる私たちこそ、耳を傾ける必要のある言葉だからです。
これらの言葉は、エペソやスミルナにある教会の御使いに書き送られた言葉です。
しかしその本来の目的が、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒であることは、誰の目にも明らかです。
世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒
「それが書かれたのは、世の終りに臨んでいる私たちに対する訓戒のためである」とはっきり書かれています。
聖書の出来事は、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒だったのです。
このように聖書は、むしろ「現代の教会に当てはめろ」と教えているのです。
なぜ、現代の教会に当てはめるなと教えるのか
「現代の教会に当てはめてはいけない」
その発言は、
「救いの方法は時代によって異なる」
「今は信じるだけの時代だ」
という神学を擁護するために使われます。
たとえば次のような聖句は、今ではもう無効であるというのです。
しかし主は、わざわざ「天地が滅び行くまでは」と言っておられます。
これらの聖句を否定する人々は、
「旧約時代の人々は律法によって救われ、
新約時代の人々はキリストの恵みによって救われる」
と教えます。
本当でしょうか?
それなら天国には、
「律法によって救われた人」と、
「キリストの恵みによって救われた人」の、
二種類の人々がいるのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
今も昔も、救いの方法は変わっていません。
律法を行うことによって救われた人は一人もおらず、
律法を守らない人も、天国には一人もいないのです。
律法の役割
律法が私たちに義を与えるのではありません。
律法は、私たちに罪とは何かを教え、治療の必要を悟らせるためにあるのです。
まずはこのことを覚えてください。
罪とは、律法に違反することです。
そして聖書の教える「救い」とは、「罪からの救い」にほかなりません。
ゆえに、律法に逆らっている人は、罪から救われていません。
ここで考えてみてください。
その人は、どうして今も罪の奴隷なのでしょうか。
それは、律法に従おうとしないからです。また、律法を守れるように、キリストに頼ることをしないからです。
律法を守りたいと願わない人に、治療は与えられません。
ただ、罪から逃れたい人だけに、救いの手が差し伸べられるのです。
このように、私たちの救いは「罪の病を癒やしてくれる医者を信じる信仰」によって実現することを覚えてください。
当時は、動物の犠牲によって、このことが表されてきました。
そして今は、十字架で流されたキリストの血によって、これが実現するのです。
ねじ曲げられてきた真理
「それは当時の人に言われたことだ」この一言で、どんな教えでもねじ曲げることが可能です。
「これは昔の人々に言われたことなので、今は姦淫しても構いません」そう言うのでしょうか。
そのような人は、終わりの日、次のように言われてしまうでしょう。
絶対にそうなってはいけません。
聖書は、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒として書かれていることをしっかりと覚えてください。
おわりに
「現代の教会に当てはめてはいけない」
そうやって、聖書の教えが次々と廃棄されている時代です。
もう、そんなことを続けてはいけません。
聖書の教えは、世の終わりに臨んでいる私たちへの訓戒として書かれているのです。
特に今、この時代のクリスチャンが真剣に考えるべきことがあります。
それは十戒についてです。
十戒は、本当に昔の人だけに与えられた教えなのでしょうか。
「もう殺してよい」
「もう姦淫してよい」
「もう神の御名をみだりに唱えてよい」
それがイエス様の成し遂げた救いでしょうか。
「天地が滅び行くまで」とは何でしょう。
「一点、一画も廃れない」とは何でしょう。
「最も小さい戒めの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者」とは誰でしょう。
どうか、聖書の言葉に耳を傾けてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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