見出し画像

「現代の教会に当てはめてはいけない」という教え

はじめに

次のような言葉が、現代の教会でよく聞かれます。

「聖書に書かれたことは、
 誰に向かって語られたかが重要なのであって、
 それを現代の教会に当てはめてはいけません」

これは本当でしょうか。

慎重に聖書から確認してみましょう。

「古い革袋」と「新しい革袋」

「現代の教会に当てはめるな」そう教える人は、必ず次の聖句を持ち出します。

マタイの福音書
9:16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

ここから、「古い教え」「新しい教え」を混ぜてはいけないと言うのです。

本当にそうでしょうか。

前の節から読んでみましょう。

マタイの福音書
9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
9:15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。

これは「古い教え」と「新しい教え」の話ではありません。

悲しみのときには断食はふさわしいが、喜びのときには食べたり飲んだりすることがふさわしいと言っているのです。

ふさわしいときに、ふさわしいことをしなさい
それがこの箇所で教えられていることです。

これが国語のテストなら、多くの子供たちが、難なく答えることでしょう。
それなのに、大人である私たちが、正しく読めなくなっているのはなぜでしょうか。

マタイの福音書
11:16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
11:17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
11:18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
11:19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。

「古い教え」と「新しい教え」

「古い教え」「新しい教え」に関する聖句は、むしろこちらのほうです。

マタイの福音書
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

両方とも取り出せる人、これこそが、天国のことを学んだ人の姿です。
具体的には、次のようなことです。

マタイの福音書
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

昔の人々に言われた神の戒めは、決して廃されたのではありません。
廃されるどころか、愛によって守りなさいしゅは言っておられるのです。

このことを、聖書は「新しい戒め」と呼んでいるのです。

ヨハネの福音書
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

一つも破るなという教え

「教会に当てはめてはいけない」
「それは当時の人に言われたことだ」
これらの発言は、多くの場合、律法を拒否するために使われます。

たとえば次のような聖句は、今はもう無効であるというのです。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

しかししゅは、わざわざ「天地が滅び行くまで」と言っておられます。
天地が滅び行くまで、神の戒めを一つ残らず守りなさい。それ以外の解釈があるでしょうか。

救われるために律法を守るのではない

私たちは救われるために律法を守るのではありません。
神の民となったので、律法を守るのです。
これは昔からの教えであり、決して変化することはありません。

それなのに、次のような教えが現代の教会に広まっています。
「旧約時代の人々は律法によって救われ、
 新約時代の人々はキリストの恵みによって救われる」

それなら天国には
「律法によって救われた人」と、
「キリストの恵みによって救われた人」の、
二種類がいるのでしょうか。

絶対にそんなことはありません。

ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

使徒の働き
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

今も昔も、律法を行うことによって救われた人は一人もおらず、キリストによる以外に救いはないのです。

救いの手順

救いの手順は、今も昔も変わりません。

それは律法を聞くことから始まります。律法によらなければ、私たちは罪を知ることができないからです。律法は、罪の自覚を生じさせるものであり、私たちをキリストに連れて行く養育係なのです。

ローマ人への手紙
7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。

罪を知り、自分の力ではそれに打ち勝てないことを悟るからこそ、キリストを求めることができるのです。

そうして求めた人だけが、心に律法を書きつけられ、義とされて家に帰るのです。

ルカの福音書
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

聖書協会共同訳2018

このような人は、もはや進んで罪を犯すことができません。
自分の身代わりとして流された血を見て、罪が嫌いになり、義を行いたいと心から願うようになるからです。

これこそが、新しく生まれた人の姿です。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない

当時は、動物の犠牲によって、このことが表されてきました。
そして今は、十字架で流されたキリストの血によって、これが実現するのです。

ねじ曲げられてきた真理

「それは当時の人に言われたことだ」この一言で、どんな教えでもねじ曲げることが可能です。

マタイの福音書
5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

「これは山に集まったユダヤ人に言われたことであり、現代の私たちは世の光ではありません」そう言うのでしょうか。

マタイの福音書
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

「これは十字架以前に言われたことであり、今は姦淫かんいんしても構いません」そう言うのでしょうか。

もう、だまされてはいけません。
すべてのことは、私たちへの教訓として書かれているのです。

コリント人への手紙 第一
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである

これを無視するなら、私たちは都合のいい聖句だけを聞く、不従順な者となってしまうでしょう。

おわりに

「現代の教会に当てはめてはいけない」
これは(ごくまれに正しい場合もありますが)じつに危険な教えです。
それによって、聖書の教えが次々とねじ曲げられているからです。

もう、そんなことを続けてはいけません。
すべての教えは、私たちへの訓戒として書かれているのです。

もちろん、例外もあるでしょう。

テモテへの手紙 第二
4:13 あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。

これはテモテだけに言われた言葉です。
しかしこの聖句さえ、私たちに兄弟愛を学ばせてくれます。

「それは当時の人に言ったのだ」と言って何もかも切り捨ててしまうなら、私たちには何も残らないでしょう。

特に今、この時代のクリスチャンが真剣に考えるべきことがあります。
それは十戒じっかいについてです。

十戒じっかいは、本当に当時の人だけに与えられた教えなのでしょうか。
安息日は、本当に当時の人だけに与えられた恵みなのでしょうか。

「天地が滅び行くまで」しゅは言われたのは、十戒じっかいのことではないでしょうか。
「最も小さい戒めの一つでも」しゅが言われたのは、安息日をも指しているのではないでしょうか。

このブログを信じる必要はありません。
あなたが滅びないためにも、どうか、聖書の言葉に耳を傾けてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)