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律法主義とは

はじめに

律法主義とは何でしょう。

多くのクリスチャンが、この言葉を間違って使っています

今、正しく認識することで、聖書の恵みにあずかりましょう。

律法を守ることは律法主義か

律法を一生懸命守ろうとする人を、律法主義だと非難する人たちがいます。

これは間違いです。

イエス様は、すべての律法を守り通しました。
私たちにも、同じ歩みが求められています。

ヨハネの手紙 第一
2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
2:5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。
2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである

ここで使われている「戒め(エントレー)」という言葉は、神の律法である十戒じっかいを表す言葉です。
これはモーセ律法とは区別されます。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。

モーセ律法を守らせようとすること

かつて、異邦人にもモーセ律法を守らせようとするクリスチャンが現れました。

使徒の働き
15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

この結論は、次のように締めくくられています。

使徒の働き
15:28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた
15:29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。

モーセ律法を自主的に守ることは、けっして悪いことではありません。
しかし、それを他人に守らせようとすることは、聖書の教えではありません。
もし守らせようとするなら、それは律法主義です。

十戒じっかいを守らせようとすること

注意してください。
十戒じっかいについては、先ほどとは逆のことが教えられています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

十戒じっかいは、守るように教えなければなりません。
十戒じっかいを守ること、また、守るように教えることは、律法主義ではありません

律法の精神を忘れること

ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

律法の精神はであり、文字どおりに守ることが大切なのではありません。
もしも愛を忘れて文字に仕えるなら、それは律法主義です。

マタイの福音書
12:11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。

救われるために律法を守ること

ガラテヤ人への手紙
5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

救われるため、また、義とされるために律法を守ろうとすることも、律法主義です。
それはキリストを必要としない方法であり、必ず失敗する方法です。

とはいえ、気をつけてください。
律法を守っていないなら、その人に救いはないのです。

ローマ人への手紙
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。

愛のゆえに律法を守る。それが真のクリスチャンです。
愛がなければ、すべてのことは無益です。

現代の律法主義

律法主義を簡単に説明すると、行いや形式によって救われようとすることです。

気をつけてください。
多くのクリスチャンが律法主義を嫌いながら、じつは律法主義の状態にいます

教会に通っているから、私はクリスチャン。
洗礼を受けたから、私はクリスチャン。
そのようなものを神の民であることの根拠にしているなら、それは律法主義、形式主義にほかなりません。

大切なのは、サタンの支配にあった私たちが、神の支配に移っているかどうかです。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

真のクリスチャンは、律法に心から服従し、一つの罪さえ犯さないように励んでいます。
絶えずしゅに祈り、誘惑があるたびに助けを求めているのです。

おわりに

律法主義とは何か、おわかりいただけたでしょうか。

それはけっして、律法を守ろうとすることではありません。

信仰によらず、形式によって自分をクリスチャンと位置づけること、それが律法主義なのです。

間違った言葉の使い方のせいで、多くの人が道に迷っています。
人の教えを捨てて、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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