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救いの確信について

はじめに

こんな言葉を聞いたことはないでしょうか。

「あの人は、あなたの救いの確信を揺るがす者だ。あの人の話を聞いてはいけない」

以前の私は、そんな言葉をみにするような人間でした。
それどころか、救いの確信を揺るがす人は、悪魔の側にいるのだと思うほどでした。

しかしどうでしょう。

「あの者の話を聞くな」これはカルトの常套手段です。

異端と呼ばれる人たちを見て、助けてあげたいと思ったことはないでしょうか。
けれども彼らは、独自の確信を握りしめており、けっして手放そうとしません。

なぜなら、救いの確信を奪われることは、彼らにとって痛みを伴うことだからです。
それで、耳を塞いだり、みついたりしてしまうのです。

私たちはどうでしょう。
イエス様は、私たちの目にも大きなはりが入っていると教えます。
このはりに気づくには、相手の話を聞いてみる以外にありません。

あなたの心には、まだ謙遜さが残っているでしょうか。

救いの確信を揺るがす者

「救いの確信を揺るがす者」に、きっと私は該当するでしょう。

けれど、福音の働きはそこから始まったことを忘れてはいけません。

マタイの福音書
3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。

かつて神の民と呼ばれる人々は、アブラハムの子孫であれば救われるという確信を持っていました。

その確信は、彼らを救ったでしょうか。
いいえ。
救うどころか、その間違った確信は、救い主を殺すに至ったのです。

現代の私たちも、これに気をつけなければなりません。

間違った確信は、真理を攻撃することにつながります。
もしも間違った確信を握りしめて、御言葉みことばを受け取ろうとしないなら、しゅを否定することになるのです。

聖書のクリスチャン

現代、多くのクリスチャンが「自分の救いは確定している」という思想を持っています。

ところが、聖書に出てくるクリスチャンは、そんな思想は持っていません。

コリント人への手紙 第一
9:27 すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない

ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる

キリストを知った人でも、従順を忘れるなら、キリストを知る前よりも、もっと悪くなってしまうのです。

義の道を知っていながら、神の戒めに対する従順を忘れるなら、私たちは再び罪の奴隷となるばかりか、その支配にどっぷりと浸かってしまうのです。

本当の確信

「自分の救いは確定している」という確信は、間違った確信です。

聖書の教える本当の確信は「神の教えに従って歩んだ先に、必ず救いがある」というものです。

ヘブル人への手紙
10:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である

大切なのは、私たちが最後まで従順に生きることです。

ヘブル人への手紙
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

「自分の救いは確定している」という確信を持ち続けるのと、「神の教えに従って歩んだ先に、必ず救いがある」という確信を持ち続けるのとでは、その歩みに天と地ほどの差が生じます。

正しいのは、後者です。
だからこそ、聖書は最後まで従順に歩むようにと教えているのです。

ピリピ人への手紙
2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい

救いの達成

現代、恐れおののいて自分の救いの達成に努めている人の、なんと少ないことでしょう。
間違った確信のせいで、多くの人が、その心から御言葉みことばを奪い取られているのです。

ルカの福音書
8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
8:14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
8:15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。

私たちが救いを達成するには、御言葉みことばを聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶ必要があるのです。

実を結ばないなら、その枝は取り除かれてしまいます。

ヨハネの福音書
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

おわりに

「救いが確定している」などとは、聖書は教えていません。

たとえ永遠の命を生きる私たちでも、忍耐をやめ、従順をなくし、実を結ばなくなるなら、その権利を失ってしまうのです。

あなたは罪から解放されているでしょうか。
神に仕えているでしょうか。
その歩みを、最後まで続ける人だけが、実を結び、永遠の命を確定させるのです。

ローマ人への手紙
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである

間違った確信を捨てて、従順を取り戻しましょう。
握りしめていた確信を奪われることには、痛みを伴うかもしれません。
それでも、救いの達成につながる本当の歩みを取り戻そうではありませんか。

偽りの神学を捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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