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罪からの解放とは

はじめに

聖書が「罪からの解放」について教えていることは、皆さん知っていることと思います。

けれどもこれを、「罪がゆるされること」だと思っているクリスチャンがたくさんいます。

かつての私もそう思っていました。

確かに、キリストは私たちの罪をゆるしてくださいました。そして、何度でもゆるしてくださいます。

しかし、これを「罪からの解放」だと考えるなら、私たちは本当の恵みを受け取ることができません。

これはとても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。

クリスチャンは罪を犯さない

まずは以下の聖句を心に留めましょう。

ヨハネの手紙 第一
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪(私たちの罪)をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。

クリスチャンは罪を犯さない、これが聖書の教えです。

まずは、この言葉を信じることから始めましょう。

目を背けず、幼子のように神の言葉を受け入れる人だけが、回復への道を歩めるのです。

罪からの解放

罪からの解放とは、罪がゆるされることではありません。
罪の性質を持つ私たちが、恵みによって罪を犯さない者へと変えられることを指すのです。

ローマ人への手紙
6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

ローマ人への手紙
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった

ローマ人への手紙
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

これが罪からの解放です。
これを信じない人や、神の律法を守りたいと思わない人には、この恵みは与えられません。神は救いを強制なさらないからです。

一方、信じる人は、すでに「罪を犯さない者」へと変えられています。
とはいえ、実感がない方も多いのではないでしょうか。

実感はなくとも、もう変えられている

犬は四足で歩き、人は二足で歩きます。

その犬が、ある日突然、人間に変えられたらどうなるでしょうか。

おそらく、二足で歩けることを知らないうちは、相変わらず四足で歩くのではないでしょうか。

私たちも同じです。

罪の奴隷であった私たちが、キリストとともに死んで、義の奴隷へと生まれ変わっているのです。

ローマ人への手紙
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

このことを悟るなら、私たちは立ち上がり、二本の足で歩くことができるのです。

もちろん、歩き始めのころは、何度も転んでしまうでしょう。

それでも、本質は「罪を犯さない者」へと変えられているのです。

これを信じて歩むならば、やがてめったに転ばなくなります。

一方、信じない人は、いつまでも地に這いつくばって生きることになります。
そうして結局、自分のためにささげられたキリストの犠牲をむだにしてしまうのです。

間違ったクリスチャンの姿

ある人は、「私はもう救われている。何度でも罪がゆるされる」と言って、完全な者となる道を歩もうとしません。

またある人は、「私は救いからほど遠い。また罪を犯してしまった」と嘆き続け、自分の行いで救いが達成されるかのように歩んでしまいます。

そのどちらもが、永遠の命を失う人の姿です。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

エゼキエル書
33:13 わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。

正しいクリスチャンの姿

正しいクリスチャンの姿は、キリストの義が私たちのものとなったことを信じて、歩むことです。

「罪を犯しても大丈夫」と思っていた人も、「罪を犯してしまう私は、大丈夫ではない」と思っていた人も、考えを一新してください。

私たちの義はキリストから与えられるものであり、私たちが信じて受け取るなら、私たちのものとなるのです。

ローマ人への手紙
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

覚えてください。
私たちは、キリストによって義とされ、救いの道に入ったのです。

もし救われない人があるとすれば、罪から解放されていることを信じず、義の道を歩もうとしなかった人だけです。

マタイの福音書
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

ペテロの手紙 第二
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。

義の道とは、神の宮に納められた唯一の聖なる戒め、すなわち十戒じっかいに、背かない生き方をすることです。

義の道はもう説かれています。
これを歩むか、歩まないかは、私たちが選ぶことなのです。

おわりに

罪からの解放とは、けっして罪を犯しても大丈夫になったということではありません。
罪を犯さなくなること、それが罪からの解放です。

このことを信じて、あなたは歩んでいたでしょうか。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

不信仰を捨て、信仰によって歩みましょう。
朝、目覚めるたびに、こう信じて起き上がりましょう。
「今日一日、私は完全に神の律法を全うすることができる
「今日もイエス様が、私を罪から救おうとしておられる

幼子を見てください。歩けることを信じて、何度転んでも立ち上がるではありませんか。
私たちも、歩けることを信じて、義の道を歩きましょう。

聖書の言葉を信じ、そのとおりに生きるときが来ています。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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