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罪を犯しても大丈夫なのか
はじめに
今回は、なかなか人に聞けない、気になるテーマを扱います。
ずばり「罪を犯しても大丈夫なのか」というテーマです。
大丈夫だという人もいれば、大丈夫ではないという人もいます。
一体、どちらが正しいのでしょうか。
聖書はどう言っているのでしょうか。
ご一緒に確認してみましょう。
罪とは何か
まずは、罪とは何かをはっきりさせましょう。
ヨハネの手紙 第一
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
罪とは不法です。神の律法に違反することが罪なのです。
二つの罪
聖書をよく読むと、罪には二種類あることが分かります。
それは、過ちと、不法の精神です。言い換えるなら、過失によって犯される罪と、ことさらに犯される罪です。
さて、イエス様が、人の過ちを責められたことがあったでしょうか。
ヨハネの福音書
8:3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
(途中省略)
8:11 ──イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
イエス様は人の過ちを責められません。悔い改めてその罪を捨てるなら、主はそれを一時の過ちとして、赦してくださるのです。
しかし注意してください。
「今後はもう罪を犯さないように」これがイエス様の教えなのです。
罪を犯し続ける人は、不法の精神を持っています。
イエス様が責められるのは、不法の精神です。
マタイの福音書
23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
この二つの罪を、もう少し詳しくみてみましょう。
二つの罪その1 「過ち」
新生したクリスチャンでも、肉体が変化するわけではありません。私たちの肉体は、相変わらず罪の性質を持っています。
そのため、誘惑に遭うと、私たちはときに失敗してしまいます。
このような失敗については、悔い改めるなら赦されるのだと聖書は教えています。
ルカの福音書
17:4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。
とはいえ、注意してください。
過ちが平気になってしまうなら、それはもう、不法の精神です。
二つの罪その2 「不法の精神」
不法の精神とは、神の律法に同意せず、自分勝手に生きることです。
この罪については、厳しい言葉が書かれています。
ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
さらに終わりの日について、こうも教えられています。
マタイの福音書
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
よく見てください。
再臨の日、多くのクリスチャンが「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われてしまうのです。
このことは、教会で正しく教えられているでしょうか?
「クリスチャンは全員天国へ行けます」と教えていないでしょうか?
それは聖書の教えではありません。
不法の精神を持つ人は、決して天国には入れないのです。
不法を働く者どもよ、行ってしまえ
まずはイエス様の教えを信じましょう。
その日、主の名を呼ぶ多くの人が、「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるのです。
そうならないように、今、神への恐れを取り戻しましょう。
罪がどれほど憎むべきものであるか、私たちはそれを十字架から知り、徹底的に罪を嫌う必要があるのです。
もしそうなっていないとしたら、あなたの中で、十字架は無意味になっています。
あなたの罪が、キリストを殺したのです。この恐ろしさに気がついてください。
このことを本当に理解するなら、私たちは罪が嫌いになり、心から義を求めるようになるはずです。
それなのに、多くのクリスチャンが、肉の欲(肉体の持つ罪の性質)に従って生きています。
ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
ここに「御霊によって歩きなさい」と命じられています。
つまり、御霊の導きと、肉の欲、どちらに従うかは、私たちが選ぶことなのです。
私たちが従うものによって、私たちは支配され、その結果、自分でしようと思うことを、することができなくなるというのです。
あなたは罪の奴隷となりたいですか?
恵みの下にあるからといって、罪を犯すなら、その人は罪の奴隷となり、死に至ると聖書は教えています。
ローマ人への手紙
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
おわりに
罪を犯しても大丈夫なのか、答えは出せたでしょうか。
その質問が出ること自体、私たちがまだ、本当のクリスチャンになっていない証拠なのです。
ヨハネの手紙 第一
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。
現代の私たちは、罪に対して、あまりにも無頓着になっています。
間違った教えのせいで、罪と戦わず、眠っているのです。
本当のクリスチャンは、十字架の力を信じ、罪から離れ、義に生きています。
そのような人を、やがて主は迎えに来られるのです。
私たちも、恐れをもって聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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