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私たちの知らない、本当のイエス様

はじめに

聖書は、イエス・キリストがであり、となって地上に来られたことを教えてくれます。

このことを、私たちは本当に正しく理解しているでしょうか。

じつのところ、多くのクリスチャンが、
聖書と異なったイエス・キリストを信じさせられています。

今、本当のイエス・キリストについて、聖書から慎重に確認してみましょう。

神は唯一

神は唯一です。
まずはこのことをしっかりと理解しましょう。

申命記
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である

マルコの福音書
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である──

コリント人への手紙 第一
8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

ここで注意してください。
父なる神と、イエス・キリストが、別々にいるのではありません。それは多神教の考え方です。

父なる神とは、イエス・キリストのことなのです。

テモテへの手紙 第一
2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである

イザヤ書
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

ヨハネの福音書
14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

もちろん、旧約聖書に記された神様も、イエス・キリストです。

ユダの手紙
1:5 あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

唯一の神が人として来られた

唯一の神が、人として地上に来られたのです。

ピリピ人への手紙
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

このことを、人間の頭で完全に理解することはできません。

けれど、これだけは覚えておいてください。
時間や空間を造られた方は、神です。
ゆえに、神は時間や空間に支配されません。そういった概念の外におられ、どの時、どの場所にも、同時に存在しておられるのです。

これを、神の遍在へんざいといいます。
当然、人となって地上に来られても、この遍在へんざいが失われることはありません。

それでキリストは、この遍在へんざい「父」と呼んだのです。
人となったからには、神を神として崇める必要があるからです。

そして聖句をよく見てください。「その有様は人と異ならず」とあります。
この意味と重要性に、あなたはどれほど気づいているでしょうか。

誘惑を受けられたイエス様

人となって来られた唯一の神は、悪魔から誘惑を受けました。

マタイの福音書
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

新共同訳1987

ちなみに「誘惑」「試練」はギリシャ語において同じ単語です。

ところで悪魔はなぜ、イエス・キリストを誘惑したのでしょうか。
キリストが誘惑に屈する可能性など、あったのでしょうか。

答えは「その有様は人と異ならず」という言葉の中にあります。
これこそ、私たちが知っておかねばならないことです。

私たちが誘惑に屈することがあるように、
キリストにもその可能性があったのです。

そうでなければ、悪魔がキリストを誘惑する意味はなかったでしょう。

私たちと同じように誘惑された

聖書は、しゅ私たちと同じように誘惑されたのだと教えます。

ヘブル人への手紙
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬(誘惑)に会われたのである。

「私たちと同じように」です。
決して、楽々と誘惑に打ち勝ったのではなく、誘惑を受けて苦しまれたのです。

ヘブル人への手紙
2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
2:18 主ご自身、試錬(誘惑)を受けて苦しまれたからこそ、試錬(誘惑)の中にある者たちを助けることができるのである。

この「苦しまれた」という言葉を、どうか読み飛ばさないでください。

ペテロの手紙 第一
4:1 このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。

「肉」とは何でしょう。
それは罪の性質を宿す肉体のことを表します。

このことをよく考えてみてください。

キリストは、傷のない子羊として、私たちの罪を負うために来られました。
生涯に一つでも罪を犯せば、傷のない子羊としての役割を全うすることはできなかったのです。

これは、神だから簡単にできたのではありません

キリストは、私たちと異ならず罪の性質を宿す肉体をとって来られ、私たちと同じように誘惑に遭い苦しまれたのです。

そして驚くべきことに、その条件下において、キリストは勝利されたのです。

ローマ人への手紙
8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。

一体どうして、そんなことができたのでしょうか。

十字架から降りてこい

マタイの福音書
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう

この誘惑に、あなたは打ち勝てるでしょうか。

「君が人生をかけてきたことは、全部間違っていたね」
「他人どころか、自分さえも救えないね」
「でもまあ、十字架から降りてきたら信じてやろうかね」
そう言われたとき、あなたならどうするでしょうか。

もちろん、キリストには十字架から降りる力がありました。
それどころか、馬鹿にした人々を火で焼き尽くすことさえできたでしょう。
そうして、自分が神であることを完全に証明することができたのです。

この誘惑に、あなたは打ち勝てるでしょうか。

私なら耐えられずに、十字架から降りてしまうでしょう。
少なくとも、心に憎しみを持つでしょう。そしたらもう、殺人の罪です。傷のない子羊とはなりえません。

けれどイエス様は、一つの罪さえ犯さず、耐えてくださいました。
(ありがとうございます、イエス様・・・私の罪のために、ごめんなさい・・・)

すべては私たちのためだったのです。しゅは私たちを愛するあまり、恥も外見も捨て、命までも捨ててしまわれたのです。

これを知ってなお、罪を愛する人がいるでしょうか。
これを知ってなお、キリストに従わない人がいるでしょうか。

聖書とは異なるイエス・キリスト

多くの教会は、キリストが罪の性質を持っていたことを否定します。
私たちと同じようには、誘惑で苦しまなかったというのです。

その理由は、カトリックに由来する「原罪説」にあります。
アダムから「罪」を受け継いだと考える人々は、人であること自体、有罪だと考えます。
そのため、キリストは私たちとは異なっていたと考えるしかないのです。

しかしそれは、御子みこを罪の肉の様で遣わした」という聖書の言葉を否定する行為です。

そのような人々を、聖書は「反キリスト」と呼びます。

ヨハネの手紙 第二
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。

新共同訳1987

肉となってこられたことを否定するなら、
罪のために苦しまれたしゅの姿を知ることができず、
感謝も愛も、薄いものとなってしまいます。

もう、そんなうそだまされてはいけません。
今、本当のキリストを知りましょう。
キリストが肉の様で来られたことを告白する人だけが、本物のクリスチャンだと聖書は教えているからです。

ヨハネの手紙 第一
4:2 イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。
4:3 イエスを告白しない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。あなたがたはその霊が来ると聞いていましたが、今やすでに世に来ています。

聖書協会共同訳2018

おわりに

イエス様の本当の姿を知っていただけたでしょうか。

その方は、私たちと同じように誘惑に苦しまれ、罪と戦われたのです。
それは、私たちの弱さを知るためであり、私たちを思いやるためでした。

これほどの愛が、ほかにあるでしょうか。

しゅは、傷のない子羊となるべく、その生涯において、一つの罪も犯すことのないように、一歩一歩、私たちのためだけに生きられたのです。
「神だから簡単に──」ではありません。私たちと同じ条件で、苦しみながら、耐えてくださったのです。

これを知ったとき、この方を愛さずにいられるでしょうか。

どうか、ほかの人にも伝えてあげてください。
本当のキリストを知ってこそ、私たちは真にしゅを愛することができるのです。

そして本当のキリストを知るなら、もう一つの希望に気づくはずです。
それは、私たちにも同じ歩みができるということです。

ヨハネの手紙 第一
2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである

できない話ではありません
キリストは私たちと同じでありながら、愛のゆえに、罪に勝利されたのです。

私たちにもそれができます。
しゅを愛するという動機によるなら、私たちも同じ勝利を得られるのです。

その歩みを助けるために、御霊みたまは与えられるのです。
というのも、罪に打ち勝つ力は私たちにあるのではなく、神にあるからです。

このとおり、人の造った神学は、必ずしも正しいわけではありません。
このブログも同様です。
必ず聖書から真理を回復しなければなりません。

人の教えをすべて捨て去って、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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