私たちの知らない、本当のイエス様
はじめに
聖書は、イエス・キリストが神であり、人となって地上に来られたことを教えてくれます。
このことを、私たちは本当に正しく理解しているでしょうか。
じつのところ、多くのクリスチャンが、
聖書と異なったイエス・キリストを信じさせられています。
今、本当のイエス・キリストについて、聖書から慎重に確認してみましょう。
神は唯一
神は唯一です。
まずはこのことをしっかりと理解しましょう。
ここで注意してください。
父なる神と、イエス・キリストが、別々にいるのではありません。それは多神教の考え方です。
父なる神とは、イエス・キリストのことなのです。
もちろん、旧約聖書に記された神様も、イエス・キリストです。
唯一の神が人として来られた
唯一の神が、人として地上に来られたのです。
このことを、人間の頭で完全に理解することはできません。
けれど、これだけは覚えておいてください。
時間や空間を造られた方は、神です。
ゆえに、神は時間や空間に支配されません。そういった概念の外におられ、どの時、どの場所にも、同時に存在しておられるのです。
これを、神の遍在といいます。
当然、人となって地上に来られても、この遍在が失われることはありません。
それでキリストは、この遍在を「父」と呼んだのです。
人となったからには、神を神として崇める必要があるからです。
そして聖句をよく見てください。「その有様は人と異ならず」とあります。
この意味と重要性に、あなたはどれほど気づいているでしょうか。
誘惑を受けられたイエス様
人となって来られた唯一の神は、悪魔から誘惑を受けました。
ちなみに「誘惑」と「試練」はギリシャ語において同じ単語です。
ところで悪魔はなぜ、イエス・キリストを誘惑したのでしょうか。
キリストが誘惑に屈する可能性など、あったのでしょうか。
答えは「その有様は人と異ならず」という言葉の中にあります。
これこそ、私たちが知っておかねばならないことです。
私たちが誘惑に屈することがあるように、
キリストにもその可能性があったのです。
そうでなければ、悪魔がキリストを誘惑する意味はなかったでしょう。
私たちと同じように誘惑された
聖書は、主が私たちと同じように誘惑されたのだと教えます。
「私たちと同じように」です。
決して、楽々と誘惑に打ち勝ったのではなく、誘惑を受けて苦しまれたのです。
この「苦しまれた」という言葉を、どうか読み飛ばさないでください。
「肉」とは何でしょう。
それは罪の性質を宿す肉体のことを表します。
このことをよく考えてみてください。
キリストは、傷のない子羊として、私たちの罪を負うために来られました。
生涯に一つでも罪を犯せば、傷のない子羊としての役割を全うすることはできなかったのです。
これは、神だから簡単にできたのではありません。
キリストは、私たちと異ならず、罪の性質を宿す肉体をとって来られ、私たちと同じように誘惑に遭い、苦しまれたのです。
そして驚くべきことに、その条件下において、キリストは勝利されたのです。
一体どうして、そんなことができたのでしょうか。
十字架から降りてこい
この誘惑に、あなたは打ち勝てるでしょうか。
「君が人生をかけてきたことは、全部間違っていたね」
「他人どころか、自分さえも救えないね」
「でもまあ、十字架から降りてきたら信じてやろうかね」
そう言われたとき、あなたならどうするでしょうか。
もちろん、キリストには十字架から降りる力がありました。
それどころか、馬鹿にした人々を火で焼き尽くすことさえできたでしょう。
そうして、自分が神であることを完全に証明することができたのです。
この誘惑に、あなたは打ち勝てるでしょうか。
私なら耐えられずに、十字架から降りてしまうでしょう。
少なくとも、心に憎しみを持つでしょう。そしたらもう、殺人の罪です。傷のない子羊とはなりえません。
けれどイエス様は、一つの罪さえ犯さず、耐えてくださいました。
(ありがとうございます、イエス様・・・私の罪のために、ごめんなさい・・・)
すべては私たちのためだったのです。主は私たちを愛するあまり、恥も外見も捨て、命までも捨ててしまわれたのです。
これを知ってなお、罪を愛する人がいるでしょうか。
これを知ってなお、キリストに従わない人がいるでしょうか。
聖書とは異なるイエス・キリスト
多くの教会は、キリストが罪の性質を持っていたことを否定します。
私たちと同じようには、誘惑で苦しまなかったというのです。
その理由は、カトリックに由来する「原罪説」にあります。
アダムから「罪」を受け継いだと考える人々は、人であること自体、有罪だと考えます。
そのため、キリストは私たちとは異なっていたと考えるしかないのです。
しかしそれは、「御子を罪の肉の様で遣わした」という聖書の言葉を否定する行為です。
そのような人々を、聖書は「反キリスト」と呼びます。
肉となってこられたことを否定するなら、
罪のために苦しまれた主の姿を知ることができず、
感謝も愛も、薄いものとなってしまいます。
もう、そんな嘘に騙されてはいけません。
今、本当のキリストを知りましょう。
キリストが肉の様で来られたことを告白する人だけが、本物のクリスチャンだと聖書は教えているからです。
おわりに
イエス様の本当の姿を知っていただけたでしょうか。
その方は、私たちと同じように誘惑に苦しまれ、罪と戦われたのです。
それは、私たちの弱さを知るためであり、私たちを思いやるためでした。
これほどの愛が、ほかにあるでしょうか。
主は、傷のない子羊となるべく、その生涯において、一つの罪も犯すことのないように、一歩一歩、私たちのためだけに生きられたのです。
「神だから簡単に──」ではありません。私たちと同じ条件で、苦しみながら、耐えてくださったのです。
これを知ったとき、この方を愛さずにいられるでしょうか。
どうか、ほかの人にも伝えてあげてください。
本当のキリストを知ってこそ、私たちは真に主を愛することができるのです。
そして本当のキリストを知るなら、もう一つの希望に気づくはずです。
それは、私たちにも同じ歩みができるということです。
できない話ではありません。
キリストは私たちと同じでありながら、愛のゆえに、罪に勝利されたのです。
私たちにもそれができます。
主を愛するという動機によるなら、私たちも同じ勝利を得られるのです。
その歩みを助けるために、御霊は与えられるのです。
というのも、罪に打ち勝つ力は私たちにあるのではなく、神にあるからです。
このとおり、人の造った神学は、必ずしも正しいわけではありません。
このブログも同様です。
必ず聖書から真理を回復しなければなりません。
人の教えをすべて捨て去って、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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