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現代教会の重い病気

はじめに

現代、多くの教会が重い病気にかかっています。

彼らは自分が病気であることを知りません。

かつての私も、この病気にかかっていました。

それは、神のくださったものを、呪いと呼ぶ病気です。

一体、何を呪いと呼んでいるのでしょうか。

教会が呪いと呼ぶもの

現代の教会が呪いと呼んで、毛嫌いしているもの、それは律法です。

はっきりとは言わないものの、彼らは次のようなストーリーを造り上げています。

かつて旧約時代、「父なる神」という存在が人に律法を与え、厳しいルールで縛り上げた。
その鎖から人々を解放するため、「子なる神」という存在が現れ、律法から人々を解放してくれた。

これは本当でしょうか。

神は唯一

神がたくさんいるのではありません。
神は唯一。これは聖書の大切な教えです。

テモテへの手紙 第一
2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである

唯一の神が、人に律法を与え、その唯一の神が、人となって地上に来られたのです。
人となって地上に来られても、神の遍在(どこにでも同時に存在できる性質)は失われません。
それでイエス様は、天の神の偏在を「父」と呼んだのです。
人となったからには、神を神としてあがめなければならないからです。

本当の三位一体は、「神は唯一」という教えから来ていなければなりません。
そうでない教えは「三神論」であって、三位一体ではありません。

この唯一の神イエス・キリストが、律法をくださったのです。
当然、この贈り物はよいものです。
律法を守り行うことを「呪い」と呼ぶ人は、とんでもない勘違いをしています。

パウロ書簡の曲解

律法を「呪い」と呼ぶ人たちは、以下の聖句を曲解しているのです。

ガラテヤ人への手紙
3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった──

大切なのは、文脈です。
ガラテヤ人への手紙では、「信仰による者」「律法の行いによる者」を比較しているのです。
この手紙で「律法」という言葉は、律法主義のことを指します。

ガラテヤ人への手紙
3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。
3:10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

これでおわかりのとおり、律法の呪いとは、律法主義の呪いのことです。
けっして、神が人に呪いを与えたのではありません。

ローマ人への手紙
7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである

負いきれない重荷

また、律法学者が人々に負わせた重荷を、律法と勘違いしている人がいます。

ルカの福音書
11:46 そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。

律法ではなく、彼らが造り上げた口伝律法について叱っているのです。
しゅが自分で与えた律法について、「負い切れない重荷を人に負わせながら」などと言うはずがありません。

口伝律法は、神の律法に反抗するものです。

マタイの福音書
15:3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝え(口伝律法)によって、神のいましめを破っているのか。
15:4 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
15:5 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、
15:6 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝え(口伝律法)によって、神の言を無にしている。

永遠の律法

しゅは、天地が滅び行くまで律法の一点、一画も廃れないと言われました。

これは生けにえの廃されたモーセ律法のことでないのは明らかです。
神の律法、神の戒めと書かれた律法は、十戒じっかいです。

反対に、異邦人に「どんな負担も負わせない」と書かれたのはモーセ律法のことです。

十戒じっかいが廃されたと教える人は、次のように教えているのと同じです。

  1. もう、神のほかに神があってよい。

  2. もう、偶像を造ってよい。

  3. もう、神の御名みなをみだりに唱えてよい。

  4. もう、安息日を聖別しなくてよい。

  5. もう、父と母を敬わなくてよい。

  6. もう、殺してよい。

  7. もう、姦淫かんいんしてよい。

  8. もう、盗んでよい。

  9. もう、偽証してよい。

  10. もう、隣人のものをむさぼってよい。

一体、これのどこに自由があるのでしょうか。
人々が罪に支配され、愛が冷えてしまうのも無理はありません。
こんな世界に住むくらいなら、私は律法の庇護ひごを求めます

律法に感謝しない人は、もう一度、十字架を見上げてください。
その十字架で、あなたの律法違反をすべて負って死なれた方がいるのです──

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

律法の下にない

律法を「呪い」と呼ぶ人たちは、以下のような聖句も曲解しています。

ローマ人への手紙
6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

これを、「もう殺してよくなった」「もう姦淫かんいんしてよくなった」と読んではなりません。

ローマ人への手紙
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪(律法違反)を犯すべきであろうか。断じてそうではない。

断じてそうではないのです。
律法の下にないからといって、断じて律法に違反すべきではありません。

「律法の下にない」とは、律法によって義とされようとする状態にいないということです。文字によって律法を守ることをやめ、愛によって律法を守る道に入ったということです。

律法は、けっして無効になどなっていません。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

律法を行うなら恵みから落ちると書いてある?

ガラテヤ人への手紙
5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

幼子のような心があれば、もう、間違うことはないと思います。

「律法を行うなら恵みから落ちる」などとは書いてません。
律法によって義とされようとする律法主義について、恵みから落ちていると警告しているのです。

私たちは、けっして、律法を行うことで義とされるのではありません。
恵みにより、信仰によって、律法を確立するのです。

神によって新しくされるなら、私たちは罪(律法違反)を犯さない者になれるのです。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪(律法違反)を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。

律法を毛嫌いする人は、新しく生まれていないことに注意してください。
心を入れ替えなければ、けっして神の国を見ることはできないのです。

おわりに

多くの教会が、重い病気で死にかけています。
律法を、神様が与えた呪いだと勘違いしているからです。

確かに、パウロ書簡にはわかりにくい箇所もあります。
けれど、無理な解釈をほどこして、滅亡を招いてはいけません。

ペテロの手紙 第二
3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている

このことに気がついたなら、ほかの人も助けてあげてください。
この病気で、多くの人が死にかけているのです。

ヨハネの黙示録
3:1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる
3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。

教会が、すべて命を得ているわけではないのです。
彼らを助けましょう。

手を差し伸べるとき、多くの罵りを受けるでしょうが、罵り返してはいけません。
聖書にあるとおり、敵を愛し、迫害する者のために祈りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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