クリスチャンは何をすべきか
はじめに
クリスチャンになったあと、私たちは何をすべきでしょうか。
事実、私たちは何をしているでしょうか。
価なしに救われたのだから、特にすべきことはない、そう思うでしょうか。
これについて、聖書が何と教えているか、確かめてみましょう。
イエス様の教え
イエス様は、天国がどのようなものであると教えられたでしょうか。
天国とは、主人が僕に財産を預け、それで商売をさせるようなものだと主は言われました。
この商売をしなかった僕はどうなったでしょうか。
これを見てなお、「役に立たない僕でも天国に入れる」と思ってはいけません。
厳しく聞こえるかもしれませんが、これを教えないなら、人を滅びるまま見捨てることになってしまいます。
大宣教命令
一般に、大宣教命令と呼ばれる命令があります。
これこそが、主人が僕に任せた商売です。
ここに、三つのことが命じられています。
すべての国民を弟子とせよ
父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ
主が命じられたことをすべて守るように教えよ
これらを一つずつ吟味してみましょう。
商売その1 すべての国民を弟子とせよ
「すべての国民を弟子とせよ」とは、「あなたの弟子とせよ」というのではありません。「キリストの弟子とせよ」ということです。
私たちの教師はキリストだけであり、すべての国民をキリストの弟子とすることが命じられているのです。
そのためには、キリストの弟子となる方法を、人々に正しく教えなければなりません。
商売その2 父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ
人々に洗礼を授けることは、私たち全員に命じられています。
「牧師でもない者が洗礼を授けるのは差し支えがある!」と言ってはいけません。
商売その3 主が命じられたことをすべて守るように教えよ
教えを選り好みしてはいけません。
「命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と主は言われました。
このことは、きちんと教会で教えられているでしょうか。
「大患難が来て私たちが逃げるとき、それが冬や安息日にならないように祈りなさい」
安息日は終わったという勝手な思想によって、この命令が無視されてはいないでしょうか。
「命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」
この商売は、あらゆる思い込みを捨て、幼子のように主の命令を受け取る人でなければ、けっしてできないのです。
商売の方法
私たちのすべき商売、すなわち宣教には、大きく分けて、二つの方法があります。
一つは、講壇に立って人々に語る、直接的宣教。
もう一つは、自分の体をもって主の栄光を現す、間接的宣教です。
主の隣で十字架についた男は、まさにこの方法で商売をしたのです。
教えが正しいなら、私たちは、愛、喜び、平安、寛容などの実を結ぶはずです(ガラテヤ5:22)。
その実こそが、主の教えに従うことが正しかったことを世に証明し、主の栄光となるのです。
良い実を結ばないなら、教えが間違っているのです。
聖書と異なる教えをいくら聴き続けても、けっして良い実は結ばれません。
聖書の正しい教えだけが、私たちに実を結ばせるのです。
おわりに
本来、私たちはキリストに似た者となり、世の人々から「どうやったらそうなれるのか」と妬まれなければならないのです。
それなのに、多くのクリスチャンが、役に立たない僕となってはいないでしょうか。
それは、教えが正しくないからです。
人の教えを教えとして受け続けるなら、けっして間違いから逃れることはできません。当然、このブログにも間違いはあるでしょう。
ですから、自分の目で聖書から確かめるしかありません。
正しい知識こそが、愛を増し加え、実を結ばせるからです。
実を結びたいなら、聖書から確かめることを怠ってはいけません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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