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クリスチャンは何をすべきか

はじめに

クリスチャンになったあと、私たちは何をすべきでしょうか

事実、私たちは何をしているでしょうか

価なしに救われたのだから、特にすべきことはない、そう思うでしょうか。

これについて、聖書が何と教えているか、確かめてみましょう。

イエス様の教え

イエス様は、天国がどのようなものであると教えられたでしょうか。

マタイの福音書
25:14 また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

天国とは、主人がしもべに財産を預け、それで商売をさせるようなものだとしゅは言われました。

この商売をしなかったしもべはどうなったでしょうか。

マタイの福音書
25:26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
(途中省略)
25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

これを見てなお、「役に立たないしもべでも天国に入れる」と思ってはいけません。

厳しく聞こえるかもしれませんが、これを教えないなら、人を滅びるまま見捨てることになってしまいます。

大宣教命令

一般に、大宣教命令と呼ばれる命令があります。

マタイの福音書
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

これこそが、主人がしもべに任せた商売です。

ここに、三つのことが命じられています。

  • すべての国民を弟子とせよ

  • 父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ

  • しゅが命じられたことをすべて守るように教えよ

これらを一つずつ吟味してみましょう。

商売その1 すべての国民を弟子とせよ

「すべての国民を弟子とせよ」とは、「あなたの弟子とせよ」というのではありません。「キリストの弟子とせよ」ということです。

マタイの福音書
23:10 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

私たちの教師はキリストだけであり、すべての国民をキリストの弟子とすることが命じられているのです。

そのためには、キリストの弟子となる方法を、人々に正しく教えなければなりません。

ルカの福音書
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない

ルカの福音書
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない

ルカの福音書
14:33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない

商売その2 父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ

使徒の働き
8:35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。

人々に洗礼を授けることは、私たち全員に命じられています。

「牧師でもない者が洗礼を授けるのは差し支えがある!」と言ってはいけません。

商売その3 しゅが命じられたことをすべて守るように教えよ

教えをり好みしてはいけません。
「命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」しゅは言われました。

マタイの福音書
24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

このことは、きちんと教会で教えられているでしょうか。

「大患難が来て私たちが逃げるとき、それが冬や安息日にならないように祈りなさい」

安息日は終わったという勝手な思想によって、この命令が無視されてはいないでしょうか。

「命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」

この商売は、あらゆる思い込みを捨て、幼子のようにしゅの命令を受け取る人でなければ、けっしてできないのです。

商売の方法

私たちのすべき商売、すなわち宣教には、大きく分けて、二つの方法があります。

一つは、講壇に立って人々に語る、直接的宣教。
もう一つは、自分の体をもってしゅの栄光を現す、間接的宣教です。

コリント人への手紙 第一
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい

しゅの隣で十字架についた男は、まさにこの方法で商売をしたのです。

教えが正しいなら、私たちは、愛、喜び、平安、寛容などのを結ぶはずです(ガラテヤ5:22)。
そのこそが、しゅの教えに従うことが正しかったことを世に証明し、しゅの栄光となるのです。

ヨハネの福音書
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

良い実を結ばないなら、教えが間違っているのです。

マタイの福音書
7:17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

聖書と異なる教えをいくら聴き続けても、けっして良い実は結ばれません。
聖書の正しい教えだけが、私たちに実を結ばせるのです。

おわりに

本来、私たちはキリストに似た者となり、世の人々から「どうやったらそうなれるのか」と妬まれなければならないのです。

マタイの福音書
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

それなのに、多くのクリスチャンが、役に立たないしもべとなってはいないでしょうか。

それは、教えが正しくないからです。

人の教えを教えとして受け続けるなら、けっして間違いから逃れることはできません。当然、このブログにも間違いはあるでしょう。

ですから、自分の目で聖書から確かめるしかありません。
正しい知識こそが、愛を増し加え、実を結ばせるからです。

ピリピ人への手紙
1:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、
1:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
1:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように

実を結びたいなら、聖書から確かめることを怠ってはいけません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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