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罪とは何か、あなたは答えられますか

はじめに

いきなりですが、罪とは何か、あなたは聖書のとおりに答えられるでしょうか。

クリスチャンであっても、これを正しく答えられない人がいます。

聖書のいう罪とは何か、ご一緒に確認してみましょう。

罪とは何か

罪とは何か、その答えは聖書にはっきりと書いてあります。

ヨハネの手紙 第一
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法(アノミア)である

口語訳聖書

不法(アノミア)とは、法に背くという言葉です。
法とは当然、神の律法のことです。
ですから、次のように訳されているのです。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

さて、こんなにもはっきりと書かれた罪の定義を、私たちは無視してはいなかったでしょうか。

罪とは、律法に違反することです。
具体的には、殺すな、姦淫かんいんするななどの戒め、すなわち十戒じっかいに違反することが罪です。
これはモーセ律法とは区別されます。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

私たち教会にとって、これは都合の悪い事実です。
というのも、私たちは十戒じっかい安息日を無視して、日曜礼拝を行ってきたからです。それどころか、日曜礼拝に従わない人々を、大量虐殺してきた歴史もあります。

そのせいで、罪とは何かを、堂々と伝えることができないのです。
これはとても重たい悩みです。

しかし、このままでいいのでしょうか。
悔い改めよ、そう聖書は教えます。
私たちはへりくだって、神の前に悔い改めるべきではないでしょうか。

不法についての正しい認識

不法について、私たちは正しい認識を回復しなければなりません。

先ほど確認したとおり、不法(アノミア)とは、神の律法である十戒じっかいに違反することです。

そして、「不法を行う者は天国に入れない」とイエス様は教えます。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

これが聖書の教えです。
「教会の教えとぜんぜん違う!」そう思った方もいるでしょう。

そうなのです。
今や多くの教会が、聖書とぜんぜん違う教えを語っているのです。

不法を行う者は取り除かれる

律法を守らない者がことごとく取り除かれることを、しゅははっきりと教えています。

マタイの福音書
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

これは未信者のことではありません。私たちクリスチャンのことです。

律法を無視するクリスチャンが、御国みくにから取り集められて、火に投げ込まれると教えられているのです。

十字架のおかげで、罪を犯してもよくなった?

本来、私たちは、律法の行いによらず、信仰によって罪から解放され、義を行う者になるはずでした。

ローマ人への手紙
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して
6:18 罪から解放され、義の僕となった。

それなのに、私たちは律法に服従せず、日曜礼拝を擁護し、安息日と十戒じっかいけがしてきたのです。

その結果、
「律法の行いによらず義とされる」という聖書の教えを、
「律法を行わなくても義とされる」というにせの教えにすり替えてしまいました。

これはとんでもない曲解です。
この曲解により、多くのクリスチャンが滅んでしまうと聖書は教えます。

ペテロの手紙 第二
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

本当の福音

イエス・キリストは、私たちの罪のやまい癒やすために来てくださいました。
このことを信じ、医者の忠告どおりに歩むこと、それが信仰です。

今、心を柔らかにして、聖書の本当の教えを受け入れましょう。

ヨハネの手紙 第一
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

このとおり、キリストにある者は、罪(すなわち律法違反)を犯さないのです。

律法を守れているかどうかの話ではないことに注意してください。
律法に同意し、心から守りたいと思う者に変えられているかどうかの話です。

そのような人を、聖書は義人と呼びます。

ローマ人への手紙
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである

一方、現代の教会は、「私たちは罪人のままだ」と教えます。
そのような不信仰な態度では、私たちの罪は癒やされません。

マルコの福音書
6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた──

今、聖書の教えを回復し、正しい信仰に立ち返る必要があります。

ヨハネの福音書
5:14 そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

もう罪を犯してはいけない

もう罪(すなわち律法違反)を犯してはいけない。これは基本中の基本です。

悔い改めるなら、私たちの罪はゆるされます。これによって、私たちは永遠の命を生きることができます。
しかし悔い改めないなら、滅びるのみであることを覚えてください。

ルカの福音書
13:3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。

思い出してください。律法は、神と隣人への愛に要約されるものです。
これを無視する人に、神への愛はないのです。

ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである──

私たちは悔い改めて、初めの愛を行わねばなりません。

ヨハネの黙示録
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

これは私たちへの警告です。
しゅが私たちを愛してくださるからこそ、警告してくださるのです。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある
10:28 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、
10:29 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう

おわりに

罪とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
それは神の律法である十戒じっかいに違反することです。

私たちクリスチャンは、安息日を無視することによって、長年、罪(すなわち律法違反)を犯し続けてきました。
それによって十戒じっかいを無視するようになり、やがて罪の癒やしも信じなくなってしまいました。

これを悔い改めて、聖書に立ち返りましょう。

使徒の働き
17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる

安息日を回復することについては、大きな葛藤があることを、私は知っています。
なぜなら、私自身、日曜礼拝を捨て、安息日に立ち返ることをしてきたからです。

次のことを、私は隠しません。
安息日の回復に努めるなら、あなたは教会から白い目で見られ、誤解され、罵られるでしょう。異端、毒麦、にせ教師と呼ばれることになるでしょう。人々の無関心によって、教会から抹殺されることでしょう。

それでも、しゅがともにいてくださいます。それで足りない人がいるでしょうか。

マタイの福音書
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
10:23 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。

私たちが頼るべきは、しゅ、お一人です。
今こそ、聖書に立ち返って、しゅの胸元へ飛び込むときです。

聖書に立ち返りましょう。そうして、一人でも多くの兄弟を助けましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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