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裁きの神について

はじめに

私たちクリスチャンは、「愛なる神」のご性質を喜び、感謝しています。

ところが、「裁きの神」となるとどうでしょう。

正直に言うと、かつての私は、そのような神のご性質を敬遠していました。

それで無意識のうちに、「愛だけの神」という、勝手な偶像を造り上げていたのです。

あなたはどうでしょうか。

今日、神様のご性質を正しく受け入れ、真理を回復しましょう。

再臨のイエス様

多くのクリスチャンが、漠然と、間違った認識を持っています。

それは、イエス様が再び来られるのは、最後にたくさんの人を救うためである、という認識です。

確かにイエス様は、世を裁くためではなく、救うために来られました。

ヨハネの福音書
12:47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

しかし、終わりの日には、そうではありません。

使徒の働き
17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
17:31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。

この日は、いつ来てもおかしくはないのです。
救いのときは今であり、間もなくそれが終わろうとしていることを覚えてください。

愛されているなら裁かれない?

次のような聖句から、私たちは愛されているから裁かれないと考える人がいます。

ローマ人への手紙
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである

確かに、神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。
救い主を受け入れたかどうかにかかわらず、神様はすべての人を愛しておられます。

だから全員無罪!
そんなことはあり得ません。

愛する妻や、自分の子供を、無罪にする裁判官がいたとしたら、公正な裁判官と言えるでしょうか。

ペテロの手紙 第一
1:17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。

これが聖書の教えです。

神様は、人をその行いに応じて公平に裁くのです。だから、地上にいるあいだ、恐れの心を持って過ごすべきだと聖書は教えているのです。

ここで注意してください。
ペテロは、未信者に向けてこう言っているのではありません。クリスチャンに向けて言っているのです。

彼を信じる者は裁かれない

聖書にはこうあります。

ヨハネの福音書
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

神様は、私たちを有罪判決から免れさせるために、御子みこを遣わされました。

しかし、曲解しないように気をつけてください。
先ほど確認したように、神様は「人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばく」のです。

クリスチャンになれば、有罪を免れるチケットをもらえる、というのではありません。それは免罪符の教えです。

聖書は、「キリストが私たちを罪から離れさせ、義に生きるようにしてくださるので、裁かれない」と教えているのです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

先ほどの聖句を意訳するなら、こうです。
彼を信じて従う者は、罪を離れ、義に生きるようになるので、有罪の裁きを免れる。信じない者は、すでに有罪の裁きを手にしているのである。

しゅは私たちに忍耐しておられる

ペテロは、「クリスチャンに向けて」何度も警告しています。

ペテロの手紙 第二
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
3:14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい

なぜ、クリスチャンにこのような警告をしているのでしょうか。

それはもちろん、私たちが滅びないためです。

思い込みを捨てて、目を覚ましてください。

「それだから──励みなさい」聖書は何度もそう教えているはずです。

それなのに、励むことをせず、聖霊によって「自動的に清くなる」と思っているクリスチャンが大勢います。
このような人たちに向けて、聖書は滅びないように警告しているのです。

確かに、私たちは自分自身を清くすることはできません。
それは霊なるしゅの働きによるものです。

とはいえ、聖書のどこを見ても、「自動的に」とは書かれていません。
励みなさい、努めなさい、戦いなさいと書かれています。

こう言うと、救いの確かさを冒涜ぼうとくしていると言われることはわかっています。
しかし、聖書がそう言っているのです。

どうか、お一人お一人が、聖書の真理を選ばれますように。

おわりに

聖書の神様は、愛の神であると同時に、裁きの神でもあります。

それなのに、間違った神学のせいで、神への恐れが急速に失われつつあります。

コリント人への手紙 第二
7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか

もう、眠っていてはいけません。
励みましょう。私たちは必ず、愛によって律法を完成できるのです。
愛とは自発的なものであって、自動的なものではありません。

ローマ人への手紙
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。
13:11 なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。

このような励ましを、聖書からたくさん受け取ってください。
いつか清くされること」を待っているだけのクリスチャンが、あまりにも多いからです。

「いつか」とは、いつでしょう。
時間は何も解決しません。

私たちが清くされるのは、御霊みたまの導きに従って歩む中でなされるのです。けっして「自動的」ではありません。

間違いなく、神は、人をその行いによって裁かれます
だからこそ、霊によって歩むことの大切さを、聖書はしきりに教えているのです。

歩んでいる人は、安心して歩んでください。
私たちが悔い改めた罪は、すべてゆるされているからです。
この歩みの先には、確かな希望があるのです。

歩んでいない人は、神への恐れを取り戻してください。
過失の罪はゆるされても、聖霊に逆らう罪はゆるされません。
そのような人は、裁きのとき、「何をしてもゆるされるのではなかったのか」と驚くことになるでしょう。

間もなくキリストが裁きのために来られます。
聖書の教えから離れず、最後まで忍耐して励みましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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