たまには、つらつら日記を。 「567(コロナ)が及ぼす心の影響を自己分析」


この記事を書いた人 #えおうお日記

わたしが泣いていたら、家族や友だち、もしくは心寄せる誰かが、わたしと「同じように」どこかで泣いていますように、って思えるのは、なぜなんだろう。

それは、思い寄せる「想像する誰か」よりもおおきな、わたしの「思いやりの大きさ」のせいだと思うんだ。
そして、なぜか、お互い泣いたうえで「もういちど」「出会いたい」こんな風になぜか感じるんだよな。
そして、「思いやりの大きさ」は、これからも、わたしの全身に刻み込まれていく。その大きさに耐えられなくなって、「涙のトビラ」「その強度は弱くなっていく」「それがあまりにも悲しい」と、繰り返しの思考回路になってしまう。

いまは?

コロナからはじまった進行形で続いている孤独な時間が、現実へのトビラを開けるのに、引っ掛かって邪魔していることが多いんだよな。そして、デジタル世界に半ば強制的に進めされているのかもしれない。

雪が「しんしん」と降る様子は、孤独のわたしがいまも流す涙とよく似ている。悲しい時に隣に誰もいないのは、本当に寂しい、苦しい。そう感じる。ううう。ううう。

柔らかな言葉でほどけていく、わたしのこころが。
こころがほどけてきたら、隣に誰かがきたと、子どものように嬉しそうに笑いたい。

氷でこころが固まっていても、溶けない氷はないから安心したい。わたしのこころは氷だったのか …?
だれもが、こころに凍っている「いち部分」があるのだろうか、それでもただ言えるのは、こころに潜む闇より強い相手はいないこと。上辺の個性で安心して、何より純粋な声を挙げて人との繋がりを求める。「常識なんていらない」と。いつまでも誰かの言いなりじゃつまらない、と。

変わりたいと願うほど、思考回路に囚われていく。がんばった分の成功が見つからない。でも選んできた道を愛してるから、考えることはやめないでおこう。

考えを開拓しつづけると、弱さの隣に、強さの「かけら」が見つかるかもしれない。

弱いままの自分のままで傷つく覚悟を持てるだろうか。塞がれた道の開かれた先が、いつか進むときにまた続きますように、とどこかで願っている。保証はないのに。

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