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『わかりあえないことから』

高校を卒業して、大学に入学するまでに読んだ本がある。当時はまだ、大学受験の国立後期試験の前で進路は未定だった。その本は自身の18年間を肯定すると共に、次への命題を与えてくれた人生を変えた本と言える本だった。

そんな本を5年ぶりに読み直した。偶然か必然か、現在も大学を卒業して、次への進路が確定していない不安定な時期である。一度読んだ本を読み返す事は無かったが、読み直してみると再度面白いと感じる素敵な時間だった。

その本は平田オリザ先生の『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』と言う講談社現代新書である。決して、ハウツー本ではない。

1. 印象に残った部分をピックアップ

「現場で云々」という発言は、実はこの「とっとと経験して来い」という無茶な注文と同質なのだ。( p.39 )
私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。( p.59 )
石黒先生は、最近よく、「芸術家は答えを先に知っている。工学者は、それを解析するだけでいい」と言っている。( p.76 )
「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねることで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。( p.103 )
「対話」においては、冗長率が増す。........冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。( p.109 )
人生は、辛く哀しいことばかりだけれど、ときに、このような美しい時間に巡りあえる。普段は不定形で、つかみ所のない「学び」や「知性」が、あるときその円環を美しく閉じるときがある。その円環は、閉じたと思う先から、また形を崩してはいくけれど。( p.112 )
ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。( p.149 )
まったく文化的な背景が異なるコンテクストの「違い」より、その差異が見えにくいコンテクストの「ずれ」の方が、コミュニケーション不全の原因になりやすい。私たちは、この「ずれ」を容易に見つけることができないから。( p.163 )
科学は、「How」や「What」については、けっこう答えられるけど、「Why」については、ほとんど答えられない。( p.180 )
子どもに代表される社会的弱者は、他者に対して、コンテクストでしか物事を伝えられないからだ。( p.182 )
俳優という自分の個性と、演じるべき対象の役柄の共有できる部分を捜しだし、それを広げていくという作業が求められている。........これを通常、「シンパシーからエンパシー」と呼ぶ。.......私は「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」と呼んでいる。( p. 197 )
私たち演劇人は、ごく短い時間の中で、表面的ではあるかもしれないが、他者とコンテクストを摺りあわせ、イメージを共有することができる。そこに演劇の本質がある。.....エンパシーとは、「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく営みと言い換えてもいい。( p.200 )
「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のい人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いてはいないだろうか。( p.209 )
日本社会には、水平方向(会社などの組織)にも、垂直方向(教育システム全体)にも、コミュニケーションのダブルバインドが広がっている。...... ただ、いまの日本社会では、漱石や鴎外が背負った十字架を、日本人全員が等しく背負わなければならない。かつては知識階級だけは味わった苦悩を、いまは多くの人びとが、苦悩だと意識さえしないままに背負わされる。( p.222 )

2. 5年前と現在の視点の違い

文中の表現を借りるのであれば、5年前の僕は「漱石や鴎外が背負った十字架を苦悩だと意識した」のであろう。18年間、自分が対峙していた葛藤に言葉を与えてくれた。そして、それを克服するヒントをくれた。

一方で現在は、自分が目指す世界観へのヒントを与えてくれた。決して平田オリザ先生の意図と同じだとは限らないが、「芸術の本質」や「コミュニケーションの本質」など、深いところで「個性に根付いた社会」に向かううえでの、先人からのメッセージを感じられた。

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