見出し画像

すぎし日は幻 春の夢

津の国の 難波の春は 夢なれや 葦の枯葉に風渡るなり 

新古今和歌集

西行

 西行の歌で有名なもののひとつです。
 大阪出身の私としては、淀川河岸の葦は、元の湿地を開発したしめりけのある故郷の原風景です。
 そうか平安時代でも大阪は葦ある土地としてイメージされてたんだな。それと共に思い出したのは豊臣秀吉の辞世の和歌です。

露と落ち  露と消えにし  我が身かな  なにわのことも  夢のまた夢

 秀吉は形として貴族社会のトップになったので辞世の和歌を残しただけなんでしょうけど、西行の歌と少し前の世代の能因法師の

心あらむ 人にみせばや 津の国の 難波あたりの 春の景色を  

といった伝統的な難波を歌った和歌を勉強して心打たれていることが伝わってくるように思います。

 じめじめとした湿地が広がる土地、大阪市内は大阪城のある上町台地以外は秀吉の時代あたりにやっとこさ開発されたようです。
 そういった世の中を良くしたという自負と、しかし、むなしさを抱えた心情が現れていて後世の人の心に留まったのかな。

 能因法師は京都よりの今の高槻にすんでいました。
 淀川の氾濫地は今の天王山のある山崎まであり、その辺りは自然な湿地を田んぼにした豊かな土地です。
 能因の難波の歌は、俗世である京を離れて春の湿地の水辺の葦の若葉、水のきよらかさを満喫している、見せてあげたいという歌でしょうか。

 西行の和歌は、それを元に葦で荒れ果てた冬に同じ場所を仏道の土地である高野山にひとり向かっている気持ちを歌った旅の歌です。

 西行が出家した理由は時代が変わることを敏感に感じたからだと思います。もう、平和な貴族の時代ではなく、暴力に彩られた武力の時代がくる。     流鏑馬の名人で平清盛の同僚だった彼は僧にならなければ、人をたくさん殺し血にまみれていたはずです。

 彼の出家は保元の乱の敗者、若き日の藤原頼長の日記にたいしたもんだって記されているらしいですけど、この豊かであったがすさんだ世の中は何らかの形で変わる。
 それに巻き込まれるという予感は当時の京都の人々に漠然としてあったのだと思います。
 人と争い、人を踏みにじっても生きること、それがすでに自分を浸している。それに対しての答え。

 秀吉を含めて後世の人も共感した感受性。失われたとされる美しいもの、春の夢を得るための殺戮のむなしさ。そこから距離をおく、ひとりぼっちの人生の誇りとさびしさ。

ちどりなく ふけゐのかたを みわたせば 月かげさびし なにはづのうら

 この歌はいくつか読んだ西行関連本のなか、吉本隆明の「西行」に吉本隆明が好きな和歌として最後に出てきます。この本は「西行」の膨大な資料を読み込んで彼の思想を読み解いた本です。

 こちらは夜に一人歩いていたことがはっきりわかる名歌です。
夜の葦原を一人行く、彼はもののふです。


  




         

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?