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「ひとりぼっち」という単語から連想したこと

「ひとりぼっち」という言葉を聞いて、皆さんはどんなことを連想されるだろうか。
・寂しい
・嫌だ
・つまらない
・苦しい
・なりたくない
・できれば避けたい
大体、ネガティブな単語が次々と思い浮かぶ。決して、嬉しかったり望ましい状態ではない。では「ひとりぼっち」を「孤独」と言い換えるとどうだろう。少し違うニュアンスが感じられないだろうか。辞書的な意味で何か違いがあるのかと思って、ためしに2つの単語を広辞苑で引いてみた。

・ひとりぼっち(独り法師):たったひとりでいること。孤独であること。
・孤独:仲間のないこと。ひとりぼっち。

お互いを定義しあっているので、同義語といってよさそうだ。ただし、「孤独」には上記のイメージの他に、ある一定の年齢を超えたらそれを楽しむ余裕があると格好いい、みたいな、「ひとりぼっち」にはない甘さが少し加わる気がする。「孤独」のもつ格好良さに比べて、「ひとりぼっち」は、ある集団の中にいる個人が、何らかの事情で溶け込めないという状態をもろに描写していて、その単語を見ているだけで、いたたまれないような、落ち着かない気分にさせられる。

今日はあえて、「ひとりぼっち」について書いてみたい。
個人的な見解だけど、「ひとりぼっち」には今のところ2種類あると考えている(まだ人生経験が少ないので、これからもっと増えるかもしれない)。
・1つ目は、いわゆる仲間外れ。自分の意思とは裏腹に、仲間と思っていた他者から拒否されることによって起こるもの。
・2つ目は、仲間から明確な拒否は受けていないが、自分が、自分自身の経験や感情を仲間にうまく説明や共有できないもどかしさや苛立ちのせいで仲間との距離を感じてしまい、あえて仲間と距離を置こうとして起こるもの。
一言で言えば、1つ目は「他人トリガー」、2つ目は、「自分トリガー」と言えるかもしれない。

他人トリガーのひとりぼっちは、恐ろしい。特に、共感力が高くて周りとの協調性を大切にできる人にとっては。そんな人がある日突然、仲間外れに合うと戸惑い傷ついて、それを乗り越えた後でも、その状況を思い出したり、想像するだけでも泣き崩れたくなるほどの威力をもっている。
一方で、自分トリガーのひとりぼっちは自分で選んでいる面があるだけマシ、といえるかもしれない。ただ、距離を感じているのは他人ではなく自分本人であるため、その距離は自力で埋めていくか、そういうものだとどこかで諦めるしかなく、他人からいくらフォローされても解決しづらいという点では、より救いがたい気がする。

どちらの「ひとりぼっち」が嫌か、恐ろしいかは、人それぞれだと思う。
私も両方の「ひとりぼっち」を人並みには経験したが、どちらかというと子どもの頃から自分トリガーのひとりぼっちを感じることが多かった。

ためしに、自分トリガーのひとりぼっちの原体験を遡ってみたい。
思い出すのは、4~5歳頃の記憶。
実家が自営業(開業獣医)をしていて(家の1階部分が病院、2階が家族の居住スペース)、両親とも朝から夕方まで病院で忙しく働いていた。まだまだ母親に甘えたい時期だったが、あまり構ってもらえない。日中は保育園に行っているので、そこまで気にならない。だが、真夜中でも急患の電話が入れば両親は飛び起きて応対し、必要ならすぐに手術に取りかかり、朝方まで終わらないということも月に何度かはあった。当時、両親と同じ寝室で寝起きしていた私は、もちろん熟睡して朝まで気付かないこともあったけれど、運悪く夜中に目が覚めて、突然両親がいなくなったことに気付いてしまうと、軽いパニックになった。そういう時は、真っ暗な寝室が怖いので、とりあえず毛布を引きずってリビングに移動し、そのまま寝転んで床に耳を付けるようになった。リビングの真下が手術室なので、そうすると手術に使う人工呼吸器の音が、微かだが聞こえる。それを聞きながら寝落ちして朝を迎えた。

この時の自分が感じていたことは、多分2つあった。
・世の中には、自分が泣いても喚いても、どうしようもできない世界(大人、仕事の世界)があるということ。
・どんなに夜一人で寂しくても、恐くても、やるせなくても、この場合は自分一人でこの状況に対応しないといけないこと。

上記のようなモヤモヤした思いを未消化のまま抱えて眠っていても、朝が来れば、平日は保育園に行かされる。友達がテンション高く「遊ぼう!」と言ってくれても、気分が乗らず、一人で絵本を読むとか木登りしたりして過ごすことが多かった気がする。
当時の保育園日記が残っていたので読み返してみると「Nちゃんは、『今は遊べないけど、後で遊ぼうね』ってよく言う。」と書かれていた。そこは気分を切り替えてみんなと遊んだらいいじゃない、と今なら言いたいけど、当時の自分としては、その言葉を友達に伝えるのが精いっぱいだったのだと思う。

次は、集団トリガーのひとりぼっち体験。
小学校2年生頃、顔や手足に突然湿疹が出て、無視はされないけどクラス中から何となく避けられる、ということがあった。たしかに、こんな湿疹あったら気持ち悪いよね、伝染ると怖いよね、と頭でわかっていても、小学校低学年の身には結構応える。でも、同じクラスの女の子が不意に側に来て話しかけてくれて、私の手をそっと握ってくれた。すごく驚いたけど、その時の彼女の優しさに胸がいっぱいになった。大人になった今でも、その子とは連絡を取り合っている。
クラスメイトの優しさに救われたこと、湿疹自体も1週間くらいで治ったこともあり、取り立ててどうこう言うようなことではないのだけれど、避けられている時に感じた独特の所在なさや不安感、空気の重さと、それを何でもないかのように軽々超えて、自然に手を握ってくれた彼女の手の温かみを、今でも折に触れて思い出すことがある。
この時の自分が感じたことも、主に2つある。
・集団トリガーのひとりぼっちになっても、心優しい誰かは見ていて、手を差し伸べてくれること(もちろんその幸運に感謝して、もし自分が逆の立場に立ったら、手を差し伸べられる人になりたい)。
・そういう優しい人とさえ仲良くできていれば、それ以外の人とは付き合わなくていいと割り切ること。

優しい人以外は割り切る、というのは私の抱える極端さによるもので、良く言えば自分の付き合いたい人の線引きをしたとも言えるし、悪く言えば、自分を理解してもらう努力を放棄して、潜在的な友人を失ってきたとも言える(だから、この割り切りはあまりおすすめしない。確実に友達の数が少なくなる)。

一定の年齢を超えると、自分も他者も、いわゆる良識といわれるもの(いじめや差別・偏見は良くない、とか)が身についてきて、子ども時代に比べれば、他人トリガーのひとりぼっちに遭遇する確率はだいぶ低まると思う。
一方で、人は年齢を重ねるごとに自分なりの個性や考え方が良くも悪くも尖って固定されてくるので、自分トリガーのひとりぼっちを経験する場面は増えるのではないか。それは、親、兄弟、友人、パートナー、子ども、会社の同僚など、どんなにたくさんの人に囲まれていようがいまいが、ふとした瞬間に襲ってくる。こういう状況に適当な折り合いをつけられること。これがバランスの取れた大人であるための必須条件だと思う。

大体の大人は、日々自分なりの方法でひとりぼっち対応をしていると思うけれど、不意に津波級のソレに襲われてしまうと、いい歳をした大人でもソレに飲まれて身動きが取れなくなることもある。
さらに厄介なのは、大人は子どもとは違って自分で選択して自由に行動できる分、一旦ソレに飲まれてしまうと、「この状況を引き起こしたのは全て自分のせいだ」という罪悪感を持ちやすいこと。

ソレを引き起こした要因は、自分の選択だけではなく、ソレに関わる他者やそこに至るまでの経緯、もろもろの状況設定が複雑に絡まって起こった事象かもしれないのに、自分は選択も行動もできたのだから、この最悪な状況を招いたのは、問題の誰かと付き合うことを選択した自分、その状況に至る様々な選択をしてきた自分、という風に全て過去の自分のせいだ!といった極端な思い込みに走りがちになる。
たしかに過去を反省することはどこかのタイミングで必要だと思うけれど、過去の自分をいたずらに責め続けることは自傷行為に近く、突き詰めていけば「結局、自分なんて生まれてこなければよかった。何で生まれてきてしまったんだろう」という考えに簡単に行きついてしまう。

今、もしあなたが、そんな「ひとりぼっち」の波に飲まれていたら。

・「あなたは、ひとりじゃない」とか意味の分からない言葉を言うつもりはない。(別に、突き放しているわけではない。だが実際、波に飲まれている今の体験やそこで味わっている感情は、あなた一人だけのかけがけのないものだ。)

・「いつか『そんな時もあった』と言える日が来るといいですね」なんて、何の役にも立たない気休めも言うつもりはない。
(冗談じゃない。そんな風に思える日が来るなんて、とてもじゃないが信じられないから今、こんなに苦しんでいるのだ)。

・そんな風に自分を責めても無駄だからやめなさい、とも言わない。というか言えない。
(今まさにそれをやっている本人は、恐らくやめたくても、やめられないのだ)。

でも、その波をとことん味わって、自分を責め尽くして、ふと「もう疲れた」とか、「この『後悔』⇔『過去の自分責め』の無限ループにもいい加減飽きてきた」とか、「別のやりようってないのかな」と思えてきたら。
その時は次のことも頭の片隅に留めておいてほしい。

① あなたには、好きだと思える他者を「探しに行く」という選択肢があること。(パートナーシップに限らない、人間関係全般の話だ)

② 好きだと思える他者を見つけたら、あなたには「自分からそういう人たちに囲まれに行く」という選択肢もあること。

残念ながら、この2つの選択肢は、私が考え出したものではない。「ずるいえいご」の著者である、青木ゆかさんから教えていただいたものだ。
私の場合、数年前に離婚を経験したこと(社内結婚だったこともあり、離婚理由も様々な要因でこじれて心理的ダメージが大きかった)、離婚後も、仕事とプライベートは別と割り切って同じ会社で仕事を続けていたものの、タイミング悪く人員削減のせいで自分の業務負荷が増し、1年くらいで体が悲鳴を上げ、適応障害と診断されて休職。人生最大級の高さのひとりぼっちの波に襲われた。
しばらく波に浸って疲れ切っていた時に、ふとしたきっかけで、青木ゆかさんの星読みを受ける機会に恵まれて、セッションの最後に先ほどの2つの選択肢を教えてもらった。

それまでの自分の人生にはない選択肢だったから、最初はびっくりした。びっくりする私に、ゆかさんは畳みかけるように「だって、あなたも自分から私に会いたい!って思ってセッションを申し込んで、本当に今日私と会えたでしょ。もうやってるよ」と言ってくださった。
そこから、青木ゆかさんとルート由夏さんのお2人が運営する「自分を生きる」をテーマとしたオンラインコミュニティ「ご不浄ランド」に入会して約2か月。少しずつ元気を取り戻しつつある。
ご不浄ランドとは……これを書こうとすると、文字数がすごいことになりそうなので、今回はここで一旦、筆を置きたいと思う。

◆「ご不浄ランド」について興味を持たれた方は、こちらの詳細をご覧ください。

https://yuka3.jp/archives/11517

◆青木ゆかさんについて

・公式ブログ:https://yuka3.jp/

・Radiotalk「ベンデルあおきの部屋」: https://radiotalk.jp/talk/560142

◆ルート由夏さんについて
・公式ブログ:https://ameblo.jp/eigocoaching/


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