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しずかに発光する

ずっと気になっていた本をついに買った日、家に帰って最初の1ページをひらくまでの道中は、リュックサックに宝物を隠している気分になって背中にすべての意識が集まる。

そわそわ、わくわくする気持ちは、自分だけの秘密。電車で隣に座っている人も、道端ですれ違う人も、私の浮足立った気持ちを知らない。リュックサックの中に仕舞われた小さな宝物は、私にしか気づかれないくらいしずかに光を放って、心をほんのり照らす。

本、映画、洋服や雑貨、料理……運命的に出会ったものたちが与えてくれる蛍のような光に、これまで何度救われてきただろう。
なんとなく毎日冴えないなと胸が重くなる夕方、飲み会でずっと人と話し続けて気疲れした夜、誰かが作り出したものに対する小さなときめきが、風呂場の排水溝に絡まった髪の毛をごっそり洗い流すように心を軽くしてくれることがある。

最近の私にはお気に入りの洋服屋さんがあって、インスタグラムやウェブサイトを見ることが日々のささやかな楽しみになっている。そのブランドの人たちの、とことん自分自身のときめきを追求しプロダクトに反映させるモノづくりの姿勢が好きで、見ているだけでスッと背筋が伸びるような刺激をもらう。

作り手の熱量がこもったものをじっと見つめて、自分の人生に取り入れようか迷う時間も好きだ。
いいな、と思ったものを片っ端から買っていたのではお金が続かないし、何よりも「買ってみたらそこまで気に入らず、タンスの奥底に追いやられるもの」が増えていくのを見るのはいたたまれないので、何かを買う前はかなり吟味する(だから優柔不断と母に怒られるのだが)。

そのぶん、悩んだ末に家にお迎えすると決めたときは、心の底から嬉しくなる。
新しい宝物を鞄に隠して歩く帰り道、夜の闇にふと足を取られそうになっても、鞄から伝わるわずかな質量が「今の私にはこれがあるから大丈夫」というしっかりした気持ちを取り戻させてくれる。ちょっとした武装だ。

不要不急という言葉が、ここ1年とちょっとで洪水のように頭の中に流れ込んでくるけれど、不要不急なものにこそ人間の心の機微が詰まっているように思える。
仕事のこと、生活のこと、人間関係のこと、自分の中心にある悩み事から少し隔たったところにある余白が、きっと誰にでも必要だ。

先日、全日本人が知っているような大企業に就職した友達2人が、「やりたいことをやっている大企業に入っても、実際の仕事はただの業務なんだよね」というようなことを言っていた。たしかに会社では、その規模が大きければ大きいほど、自分がやりたい仕事が必ずしもできるとは限らない。そこで幸せが見つけられないわけではないと思うが、その場では「じゃあ本当は何がしたいか」という話になった。

友達があんなことをしたい、こんなことをしたいと盛り上がっている間、私は就職活動をしていた頃には明確に存在していたはずの「やりたいこと」がいつの間にか見えなくなっていることに気がついた。あの時やりたいと言っていた自分の気持ちは嘘だったのか、その業界に就職できなければ別に良いや、と思える程度の気持ちだったのか。きっとそうだったんだろうと思い、少し寂しくなる。

それから話は続き、何の流れだったか、私は「最近インターネットで洋服ばかり見ている」という話を友達にした。その人にも共感できるところがあったようで、わかるわかると喋っているうちに、私はふとこんなことを話していた。

「心からときめけるものを作ってくれる人がいるって幸せなことよね。私も誰かのときめきになるようなものを作りたいなあ」

この言葉が自分の口から出たときに、あ、やっと自分の核にずっとあるもの、自分が本当にやりたいことの輪郭が見えた、という気がした。

私が今年から始めた仕事は、世の中に必要な仕事だとは思うけれど、誰かの心の余白にときめきをもたらすような仕事ではない。それなりに向いている気もしてきているが、私がいちばんやりたいことは、自分が今までそうしてきてもらったように、誰かの心の中でしずかに発光し、湯たんぽのような温度をもつものを作ることだ。
まずはそんなnoteが書けるようになりたいし、文章を書くことの他にも、今はまだ自分の心に曖昧に潜むときめきの種を芽吹かせて、誰かの心に届けたい。そして何よりも、この気持ちを日々の雑務に追われて見失わないようにしたい。

そう心に決めても、さっそく明日から忙しない一週間が始まる。明日は仕事ではじめてのプレゼンテーションがあるので落ち着かない。思い切って会社に行かず、布団をひっかぶって寝ていたいと夢想する。
だからこそせめて、明日は例の好きなお店で買ったばかりの洋服を着ていくと心に決めた。ときめきを心に携えて、いっちょやってやるかあ、くらいの気持ちで外に踏み出してみようと思うのである。

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