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京大に来て変わった価値観「勉強は偉くない」

しばし、自分語りをさせてください。

私は北関東の田舎出身で京大など雲の上の存在といった環境で育ってきました。
高校受験を転機に勉強を始め、浪人はしたものの結果的に京大に入学することになったわけです。
勉強の向き不向きで言うと、どちらかといえば向いている方では合ったのでしょうが、「神童」なんて言葉とは程遠い、周りよりちょっと計算が早いけど漢字力テストでは点数が取れず毎回再テスト、みたいなわりかし平凡というか、宿題を1回たりともやっていかず毎日のように叱られていたことを鑑みるとむしろ劣等生だったと言えるのかもしれません。

勉強は嫌いというか、やるものではないというか、
「やったら偉い」
といった認識でした。周りもやっていないのです。やっている奴は優等生というか。
高校受験の折にも宿題すら全くやったことのなかった自分にとっては10時間机に向かっているだけで誇らしく得意げな気分になったほどです。
ほとんど音楽を聴いているだけで何も勉強していなかったのに。
(その後転機があってうまくいき始めるわけですが、それはまた別の機会に)

そしてその認識は大学受験を終えるまで本質的には変わることがありませんでした。
「勉強をしている自分は偉い。勉強は将来のためにすべきもの。」
「周りはやっていないけど自分はやっているし、成績も県内で良い方である。誇らしいことだ。」
浪人をさせてくれている両親への感謝はありましたが、深層心理にはこういった考えがあったように思います。

京大に来て周りの頭脳明晰な友人たちを見るにつけ、
そういった「勉強は偉い」という考え方は一種になりうるのではないかという考え方に至ったので、これについて書いてみようかなと。


なぜか大学入学後に勉強する友人

「大学は人生の夏休み」
「単位は直前に過去問を勉強すれば大丈夫」
「授業はサボるもの」

今となっては恥ずかしい話ですが、大学に対してこういったイメージを持っていた私にとって最初に驚くこととなるのは、「大学入学後にも受験生に引けを取らない勢いで勉強する友人」の存在でした。

入学してすぐに仲良くなったA君は開成高校出身(京大では珍しい)で研究に対する明確な意思を持って入学してきた、まさに当時の私とは対極の存在でした。
「将来-を学びたい。それには今-学の知識が足りないから勉強しなきゃなあ。」
そう言う彼の目は輝いており、楽しそうでした。
その時に私が思ったのは「勉強してて偉いなぁ」「なんでこんなに頑張れるのだろう」といったことで、やはり受験生までに培った「勉強は偉い。頑張るもの」という価値観をひきずっていたのです。

崩れる価値観

こういったカルチャーギャップを京大入学後に相次いで経験する中で、また、そんな友人たちに触発されて自分自身勉強する中で私が19年間培ってきた凝り固まった価値観が徐々に崩壊していったのです。

「学ぶことって楽しいことなのかもしれない」
「今までやらされているという認識だったからしんどかっただけなのかもしれない」

新たな価値観の芽生えというか、むしろ自分の内に眠っていたものが開花するといった表現の方が適切かもしれません。

確かに受験生活を思い返してみると、
「今まで知らなかった数学のエレガントな解法を見た時の感動」「問題を解けるようになった時の嬉しさ」「新しいことを学んだときのワクワク感」

こういったものは少なからず、というか大いにありましたし、これに共感してくださる方も少なくはないのではないかと思います。

そんな中で必然的に生じる「より詳しく学んだらどのような世界が広がっているのだろう」という知的好奇心。受験生の時に読んだ「大学生物学の教科書」。あのワクワク感を覚えています。

ここに「偉い」も何もないんですよね。

「自分が学びたいからやる。もしそれで飯を食っていけるようになったらこんなに幸せなことはない。」

入学当初理解できなかった彼らは、こういったマインドで勉強をしていたのだろうと今となっては思うわけです。

「勉強は偉い」と考えるのは人生の損

そんなこんなで田舎出身の私が持っていた「勉強は偉い」という価値観は崩れ去り、今はむしろ
「あれを学びたい。これも面白そうだ。ああ、やはり面白い。ぁぁ時間が足りない」

といったマインドになっているわけですが、これは私が成長したということを言いたいのではなく、多かれ少なかれ幼い時、もっと言えばおそらく生まれた時より決まっていたのではないかと思うわけです。

しかし、学問の面白さを分かち合える人はあまり多くないのが現実問題。
実際に周りにも学問を愛するような人間は皆無で、むしろ勉強は修行のようなものという価値観の人しかいなかったことでそれに同調してしまっていたのでしょう。

誤解を恐れて言いますが、高校まで周囲にいた人間はいい人ばかりで本当に私は恵まれていました。学問に対する当時の姿勢も私自身の責任です。

しかし、思わずにはいられないわけです。
「もっと早くに学問の楽しさに気がついていたら、今頃もっと学問を楽しめていただろうになぁ」と。

もし、今までの人生で何かにハマり調べて「-博士」とか呼ばれたことがある人がいればおそらく学問に向いています。高校生でも大学の専門書を読んでみたり、好きなだけ勉強することでより楽しい人生が待っているのではないかと。

結び

私の勘違いでなければ「勉強は頑張るもの」という価値観が蔓延っているように感じます。そればっかりではないと異なる味方を提示してみたくこの文章を綴りました。激辛料理が嫌いな人から見れば、それが好きな人を理解するのが困難であるというのと同じことですね。

駄文ではありましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。少しでも思考の糧にしていただければ幸いです。


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