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祖父が逮捕されていたという話

◆新聞記事の中の祖父と生まれた頃

何だか物騒な見出しの新聞記事。その記事の中に祖父の名前が出ている。
昭和28年(1953)石川県内灘村で起きた「内灘闘争」という事件。
その写真展に一緒に行っていた仕事の相棒が、祖父の名前を口にし、知っている人かと聞いてきた。
彼が指さした先に、漁民たちの逮捕という新聞記事の写真があり、その逮捕された8人の主犯格として祖父の名前があった。
「オレの祖父さんだよ」
身内に逮捕歴のある者がいるなどというのは、どう考えても普通ではない。
だが、それほど驚かなかった。むしろ誇らしげに答えていた。

生活の糧としていた海を、国の政府を通じて米軍に奪われた男たちが、一泡吹かせようととった行動。
その行動を犯罪と呼ぶのは、あまりにも安直過ぎる。
そう思ったりしながら、微笑ましい祖父の素顔を見た気がした。
 
記事によれば、米軍に接収された内灘の海岸に強行出漁した地元(内灘村黒津船・宮坂地区)の漁師が、国警石川県本部捜査課、河北地区署の捜査により逮捕されたとあり、地元民100人が釈放を求めて河北地区署に押し寄せたと記されている。
逮捕された者たちは、取り調べが終わると、翌日釈放されたが、その中に当時61歳だった祖父の名前があった。

祖父は明治19年(1886)に生まれ、昭和47年(1972)まで生きた。当時としては長生きの方だった。
 
生まれたのはようやく明治維新の混乱から安定期に入った頃で、新生日本に初代総理大臣(伊藤博文)が誕生した1年後だ。
大日本帝国憲法が発布される3年前でもある。日本がかなりの勢いで強国に近付こうともがいていた頃。

もちろん祖父がそんなことに絡んでいたわけでもないし、日本はどうなるのか…などと考えていたなんてこともあろうはずがないが、その後の祖父の生き方やらを思うと、漁業という生業の中で、自由にのびのびと力を発揮していった背景が見えないでもない。

◆内灘闘争の中の祖父

話は中途半端に展開していくが、祖父はなぜ逮捕されたか?だ。 
厄介だが、まず「内灘闘争」という事件を説明しなければならない。
……… 昭和25年(1950)6月、朝鮮半島で戦争が起こった。
国連軍の主力を成していた米軍は、戦争で使用する砲弾の製造を石川県の某企業に依頼するが、そこで製造された砲弾を試射する場が必要だった。
そこで目をつけたのが、金沢近郊の貧しい漁村に過ぎなかった内灘なのだ。
 
政府がそのことを決めるや、当然のごとく村中が大騒ぎとなり、その抵抗運動は新聞報道や労働団体、学生たちの動きもあって全国へと広がった。
そして何よりも地元住民たちにとっては、細々と続けてきた沿岸での漁業権を奪われる死活問題でもあった。
そのような中、昭和28年3月には試射が開始される。住民たちは大反対の意思を示し、その年の6月には座り込みなどの抗議活動が激しくなる。
しかし、結局当時の日本経済が朝鮮戦争による特需の恩恵を受けていたということや、貧しい村にさまざまな補償の話がもたらされていく中、試射場の使用は続けられ、昭和32年(1957)に返還されるまで続いた……

この出来事は、多くの人たちから、今沖縄などで起きている米軍基地問題の走りとか先駆けなどとも言われ、日本で起きた最初の対米軍闘争という位置づけもされている。
 
これまで、そういう難しい視点に縛られたくなかったこともあり、自分としては、地元の目線を重要視してきた。
そして、祖父たちが起こしたこの出来事にあるような、住民たちの当時の日常などに関心をもってきた。
自分の身近な人たちが、あのとき何をしていたか、何を考え、何を感じていたか…… そのような方向に目を向けるようになった。
 
すでに亡くなっているが、当時まだ若い母親だった叔母は、すぐ近くで砂煙を上げながら炸裂する砲弾が怖くて、座り込みに行くのがいやだったと話していた。まだ幼かった兄は、親が座り込みに行っている間、近所で大学生たちがギターやアコーディオンで歌を歌ってくれたり、紙芝居を見せてくれたりして楽しかったと振り返っている。

日常の生活は、このようにしてごく普通に流れていた。
そこに祖父もいた。

◆海の男としての祖父

祖父の話に戻ろう。この頃、祖父は何をしていたのだろう。
すでに衰退していた遠征による漁業からは手を引き、家の前に広がる河北潟や日本海沿岸での地引網などで、辛うじてかつての海の男としての面目を保持していたのだと思う。

明治、大正そして昭和のはじめ、祖父は、いや祖父たちは、漁船を駆使して日本海を北上したり南下したりして魚を追っていた。わずかに残っている若い頃の写真からは、逞しい体つきをした祖父の姿を見ることができる。

幼い頃から寝起きしていた座敷には、北海道の“松前水産組合”という組織から送られた感謝状が飾られていた。すでにかなり時代がかった色をしていたが、その内容は漁獲方法の指導や改良などの貢献に対するものだった。
大きな額や堂々とした筆文字を見ているだけで気持ちが高ぶった。

周囲からも、祖父は凄い男だったという話をよく聞かされた。
祖父たちは漁業で財をなした。親分肌で、魚を獲るということに関しては天才的な感覚をもち、人一倍の努力を惜しまなかったという。早く漁場へたどり着くために、いち早く最新のエンジンを導入したりもしていた。
 
昔の家には“アマ”と呼ばれる屋根裏空間があり、そこには網などの漁具と一緒に数多くの火鉢やお膳などが並んでいた。座敷から居間にかけての広い空間で、宴会などがよく行われていたらしい。

私が生まれたとき、祖父は62歳。
元気ではあったが、かつてのような逞しさは影を潜めつつ、無口で力持ちでモノに動じない、そしてやさしい祖父さんだった。

忙しかった母の代わりに、祖父に子守をしてもらって私は育った。
大きな背中に背負われた私のことを、近所の人たちは大木に縛られているみたいだと言っていた…と、よく聞かされた。
まだ保育所にも入る前だろうか、近くの寺の報恩講などに連れていかれ、寺の近くにあった駄菓子屋でキャラメルを買ってもらった。
そして本堂で祖父の横に小さくなって座り、おまけのおもちゃで遊んでいたというかすかな記憶がある。

昔の、五右衛門風呂を煉瓦とセメントで固めた、今となってはどう表現していいのか悩んでしまう当時の風呂にも、祖父と一緒に入っていた。
子供にはかなり高い階段を二段ほど上って浴槽に入るという複雑怪奇な風呂場であったが、ある時祖父はその浴槽の縁から後ろ向きに落ちた。が、何食わぬ顔で起き上がると、何事もなかったかのようにして、また浴槽に体を沈めていた。

毎晩コップすれすれに注がれた一杯のお酒を、祖父は美味そうに飲んだ。
そのコップを棚から出してくるのが私の仕事だった。私の前はすぐ上の兄がやっていたと思う。ときどきその酒を舐めさせてもらったが、祖父は小さく笑って見ていた。

◆細々と漁を続けていた祖父

その当時、祖父は未明に河北潟に舟を出し、細々とした漁を繰り返していた。河北潟はその後に干拓され半分ほどの大きさになるが、かつては日本で二番目に大きいと言われた潟だった。

河北潟の漁ではハネと呼ばれた淡水魚が獲れ、早朝家の前まで運ばれた網が竿にかけられると、家族で魚を網から外す作業が行われていた。
近所の人たちが小さな鍋や籠や皿を持って集まり、買って帰っていった。

魚がすべて網から外され、きれいに整理されて箱詰めにされると、それは隣の地区にある漁協に運ばれる。
運ぶのは姉の仕事だった。姉は中学生ぐらいだったろうか。自転車の荷台に箱を縛り付け、漁協へと向かった。
その自転車には幼い私も便乗していた。荷台には魚の箱が載せられ、私は前に座っていた。姉の息を頭のてっぺんで感じながら、必死にハンドルにしがみ付いていたが、当時まだ道路は舗装されておらず、その乗り心地は悲惨なものだった。

魚はその場で現金決済されたのだろうか。といっても、ほんのわずかな金であったことは間違いない。しかし、そのお金で姉は私に必ずお菓子を買ってくれた。それが目当てだったのは言うまでもない。

ところで、ハネという魚は子供の記憶にもはっきりと残っているほど美味しい魚だった。ハネが捕れる時期の朝ごはんは、大抵そのハネの煮つけがおかずだった。
あの甘くどい出汁を吸った白身の味が、今でもはっきりと思い出されることに不思議さを感じる。

◆サツマイモを売りに行く祖父

祖父のことで強く残っている記憶のひとつに、河北潟の対岸の町にさつまいもを売りに行った時のことがある。

内灘の砂丘地では、さつまいもが作られていた。
現金収入の乏しかった時代、このさつまいもが唯一よそへ持って行っても何とか売れる産物だったのかもしれない。

祖父の小舟に笊に入れられたさつまいもが積まれ、祖父が操縦して対岸の町へとひたすら真っ直ぐ小舟を向かわせる。
舟には母と叔母だったろうか、とにかく何人かが乗っていた。
そして私は、その舟の先端の尖ったあたりに背中を押し付け、早く向こう岸にたどり着けと願いつつ、空を見上げてばかりいた。

行くときは大して揺れなかったが、帰りになるとそれなりに小舟は揺れた。特に夕暮れ時になったりすると、水面を跳ねるようにして上下する小舟の動きに敏感になっていた。
 
対岸の町で見た光景は、後に物事が分かるようになってからひとつの感慨となって残ったものだ。
当時は当然、その光景をただぼんやりと見ていたに過ぎない。しかし、あとで感じたことは、自分でも不思議なくらいに切なく悲しいものだった。

かつて海の男としてならした祖父が、さつまいもを売り歩くために頭を下げていた。額に汗を浮かべ、その汗を首に巻いた手ぬぐいで拭く姿は、かなり疲れているようにも見えた。

そして、あの時の祖父の姿には何か特別な思いを持ってきた。
自然体な祖父からすれば、さつまいもを売り歩くこともひとつの人生だったのかも知れないが、どこかに淋しさを感じた。

対岸には水田が広がり、狭い水路を通って民家の並ぶ町まで入って行く。
そこで出会う米を作っている人たちの、どこか落ち着いた、もっと言えば品の良さそうな表情が眩しく映っていた。
町の人の中にはお金ではなく米と交換する人もいたが、もともとこちらは米を目当てにしていたのかもしれない。
こちらが貧しいということを、その町の人たちは知っていたのだろう。

◆祖父の死

祖父は私が18歳の時に死んだ。
全く病気などしたことはなく、老衰という祖父らしい自然体の死に方で息を引き取った。
私にとっては、生まれて初めて体験する身内の死でもあった。

高校三年であった私は、帰宅した時に祖父の死を知った。
普通では考えられないかも知れないが、祖父の死はリアルタイムで知らされなかった。
夜バス停から歩いて家の近くまで来た時、家の前が異様に明るいのに気付き、そのことを察知したのだ。わざわざ学校を早退してまで帰って来なくてもいいという、当時の田舎の素朴な生活感覚が匂ってきて、この話には自分でも違和感がないから不思議だ。

祖父の遺体が焼かれようとしている時、母がひと言呟き、泣き顔になった。
母はかなり苦労した人であったが、その心の支えとなったのが祖父だったのは明白で、どっしりと構えた義父としての大きな存在が、母を勇気づけてきたことは間違いない。
 
祖父が煙となって空に昇っていくのを斎場の脇から見上げていた。
私の前にはすぐ上の兄がいた。肩が震え、嗚咽が聞こえてきそうだった。
涙は出なかったが、私もあらためて祖父の存在と、その祖父の死を実感したように思っていた。

祖父の名は、徳太郎。大らかないい名前だ……


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