朝刊の記事から。東芝の経営改革と「テヘランからきた男」(児玉博、小学館)。

朝刊の一面で東芝が数千人削減と言う記事が出ている。

東芝について論じた本は多数出版されているが、先日、「テヘランからきた男」(児玉博、小学館)という本を読んだ。テヘランで現地採用され、さらにトップまで登りつめた西田氏(故人)はについてフォーカスした一冊である。非常に珍しい経歴で、不世出の経営者になる可能性があったとも言えるが、当時の経営陣の1人であった佐々木氏との確執などもあったほか、米国の原子力事業での痛手、不正会計問題がくすぶり続けた。

記事の中では、間接部門の削減であるとのことだが、「四つに分かれている事業会社を本社に吸収」する計画であり、「総務や経理など重複部門を一本化し、余剰人員を削減する」計画であるらしい。

会社を分割して、それぞれの事業会社が利益を上げられるようになる中で人を増やすという思惑で人事施策を展開していたのかもしれないが、その計画が費えると今回のような結末になるのかもしれない。本来は経営責任を問われなければならないのであろうが、結果として人が減らさなくてはならなくなっているのは、日本中で人手不足・賃上げが言われ、人的資本開示が叫ばれる中で、今回の報道はショックのようにもたらされたと思う。

今後はデジタルに集中投資すると言う事だが、個人的な実感として、どんなにメディアが報じても「デジタルで儲かる」というイメージが湧かない。政府もデジタル化を進めるためのデジタル庁を作っても、マイナ保険証に象徴される問題で混乱し続けたし、民間企業も「何かやらなければならない」と「デジタル人材」をかき集めては見ても、今一つ画期的なブレイクスルーが生まれていない。

海外のメガテックのサービスがデファクト化していて、日本企業のやるIT・デジタルサービスが人口に膾炙しない状況が続いているとも思う。

東芝が時折ニュースになるのは、もちろんその知名度や歴史もさることながら、皮肉にも、これまで獲得してきた名門企業としての存在がゆえに、コーポレートガバナンスやコンプライアンス、人的資本開示・透明性といった概念の逆をいく「ザ・旧態依然とした日本企業」として気になってしまうためでもあるかもしれない。

冒頭に挙げた「テヘランからきた男」の中には日本から遠く離れたテヘランで、若き日の西田氏が屈託なく笑う写真が掲載されている。その顔は戦後の日本人ビジネスマンが、海外の慣れない土地の中で草の根的に、懸命に仕事に立ち向かっていく姿を象徴しているようにも思える。

失われた30年とも言われる長きにわたる不況の霧の中から日本企業が抜け出せたと言える日が来るのだろうか。

参考文献
1)児玉博(2017)「テヘランからきた男」(小学館)
2) FACTA編集部「東芝大裏面史」(文藝春秋)

以上。

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