即興ライブ「煉獄ファンネルへの旅」に寄せて
未完成な作品が異彩を放つ。そしてその未完が深い意味を宿す。歴史的に「偉大なる未完成」、あるいは偉大なる失敗作なるものがある。それらはしばしばある種のジンクスと結びついて語られる。映像史においては『ドン・キホーテ』を映像作品にしようとすると制作が頓挫するとか、良くても完成まで気の遠くなるような迷走を辿るという話は有名で、古くはオーソン・ウェルズ、やや新しいところではテリー・ギリアムのものがそうであった。
似たようなものとして、ダンテの『神曲』を原案とするコンセプト作品が未完に終わるということをあげたい。これはあまり知られていないことかもしれないが、マーラーの第10番の交響曲はダンテの『神曲』の世界観を交響楽として描こうとした野心作であったが、彼の死によって完成前に途絶し、完全な形で残されたのは第1楽章だけとなったことがある。
この交響曲はまさに『神曲』における「天国・煉獄・地獄」という彼岸世界の三層構造を模すことを目指しており、「天から」と「地獄から」の二重漏斗(ファンネル)形状の世界を描いたものだ。漏斗の狭まったところが結合されるその構造は、第3楽章に天国と地獄の出会う中間地点であるところの「煉獄」が副題として付けられているところ、あろうことかひとつの交響曲に「2つのスケルツォ」が対置される(2楽章と4楽章)という変則的構造からも伺える(その点、第7番の構造に似る)。マーラーはクラスター・トーンで黒く塗りつぶされる第1楽章で「地獄」を描き、移動(旅)を表現するスケルツォで地獄の諸相を経巡り、煉獄の狭いトンネルを潜って天国に至る道程を描こうとしたのであるが、その壮大な構想は未完に終わったのであった。死が間近く迫っている人間が、地獄から天国に至る冒険譚を描こうとするのは、なんとも理解できることではないか。
現在この未完の交響楽がデリク・クックの補筆によって全体像を眺めることができるのは、幸運としか言いようがない。マーラーが晩年に眺めた『神曲』の世界は、第二次大戦後に現れたクック補筆版マーラー第10交響曲によって、その「旅」の追体験を通して現代において観覧可能になったのであった。
地獄も天国も広いが、地獄から天国に至る道は狭い。その険しい現実を偉大なる「未完成」を通して、マーラーはその命を燃やして提示し、そしてこの世を去ったのであった。
次は『神曲』をベースにした映像作品が未完に終わるもうひとつのジンクスについて。ポーランドの映画作家、『青: Bleu』『白: Blanc』『赤: Rouge』のトリコロール三部作を制作したクシシトフ・キェシロフスキ(1941-1996)が制作を試みた『神曲』をベースとした三部作がそれである。54年という短い生涯を思えば、超人的に膨大な仕事をしたキェシロフスキは、生涯にわたって世俗的表現を隠れ蓑に、ユダヤ=キリスト教、そして錬金術などヨーロッパ精神史の地下水脈的部分=秘教知識(エソテリスム)を背景に映像作品を作り続けた人で、そのもうひとつの代表作は、モーゼが神から授かった「十戒」をベースにした『デカローグ』(ずばり「十戒」という意味)というものである。
そのキェシロフスキは、映像史に残る偉大なトリコロール三部作を完成し、一旦映画業の引退を宣言したものの、やはりダンテ神曲の三部作(天国・地獄・煉獄)の映像化、という「偉大なる未完」への道を歩み出す。1996年に逝去することになる彼は、ダンテ三部作の脚本だけを遺した。これはまさにマーラーが最初から最後まで一本の線で繋がった曲のアウトラインを遺し、後年の優れた補筆によって交響曲が完成したことに重なる。キェシロフスキから多大な影響を受け、『ラン・ローラ・ラン』を制作したトム・ティクヴァが2002年『天国篇』の脚本を元に『Heaven』を発表、そして2005年にはダニス・タノヴィッチが『地獄篇』の脚本を元に『L'Enfer (地獄): 美しき運命の傷痕』を発表した。
ところが、『煉獄篇』を基礎とした映画作品は、2024年の今日に至るまで、完成したという話を聞かない。キェシロフスキの『煉獄篇』の脚本完成のレベルが低く、映像になり得ないということなのか、観念が複雑すぎて映像化が難しいからなのか、その理由はわからない。だが、いずれにしてもこの三部作についても現時点では「偉大なる未完」の状態で提示されているのである。
地獄も天国も広いが、地獄から天国に至る道は狭い。
この度のライブのタイトルを『煉獄ファンネルへの旅』としたのは、完成できないものへの、心を焦がすような憧憬を以て音楽に挑み、その道程そのものをオーディエンスとともに経巡ろうという、旅への誘いとしたいためである。