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量子に至る、縁起に至る

こんにちは、領です。

「この世の全ての人は同一人物」ということが数学的に示唆され、常識として受け入れられる時代が来ますように。
私がブログで書きたいことはこれ一つです。


自分の頭上にミサイルの照準を合わせて撃ち込む人は、なかなかいません。
自分に照準が合わされる銃を作って売ろうとは思いません。
自分の頭上に落とされる予定の核爆弾の製造計画を立てたりはしません。
自分が過去に失敗したことに対して、喜んだりしません。
自分がご飯を食べたときに、食べさせてあげたとは思いません。
自分に服を買ったときに、買ってあげたと思いません。
(例外はあるかもしれません。)

目の前の他者は、自分が生きることになる状態そのものです。実は、たった今自分が生きている構造です。その世界観が常識になるといいな。

縁起縁滅の法の領解に至り、五蘊の観察を続けると、五蘊が空に潜在し何も存在しない状態に至ります。その状態で如実に知るのが、五蘊に実在の感触をもたらす「観」そのものです。
「観」という物理作用がなければ、主観に実在の感触は与えられません。
「観」という物理作用がなければ、「無」と同じです。

【五蘊「観」】
五蘊が潜在し無に至ると
【「観」】
むき出しの「観」そのものになります。

物質、反物質が対消滅し光になるように、個人の五蘊、反個人の五蘊が対消滅します。
相反するものを統一して上位の状態になることは、相反するものを今、観るという構造です。

【個人の五蘊、反個人の五蘊が対消滅】=【一切の五蘊、反一切の五蘊の対消滅】=全てを観る全知

全知【「観」】<<<分岐<<<個人【五蘊「観」】・個人【五蘊「観」】・個人【五蘊「観」】・・・

快・不快という相反する五蘊を統一して平等に観るとき無に潜在し、上位概念の「観」を如実に知ります。何も観ていないから無に潜在するわけではありません。観るから潜在します。

最上位概念というより、原初の物理作用を「観」と名づけているだけです。無次元の点の物理作用で時空に遍在し、関係性の中心に位置し、存在に不可分に在ります。「観」は、人という構造において、五蘊を統一して「観る」という作用をもたらし、特に人という構造にとって、大切な主観に実在の感触を与えます。
厳密に無とするときは「無観」と表現することが適切です。

眼球の「見る」と、「観」は性質が似ていて、「観」そのものに気付くことができません。
悟りは、五蘊が潜在し「観」そのものだけになります。その状態で如実に「観」を知ります。
詳細には、「観」そのものの状態で知るのではなく、「観」のみの境地は刹那であって、直ぐに展開する五蘊の中で「観」を知ったと理解します。

普段、人は、【「見る」を「観る」】という構造を持ちます。【「見る」「観」】という構造です。今ここで「観」は全ての人に作用しています。悟りの状態で知る「観」を、今、全ての人は知っているのに気付いていない状態です。普通に目を閉じたときに感じる「観ている」という感覚です。多分、「観」のみの状態を知らなければ、それが唯一として存在するという直観には至りにくいと思います。
でも、眼球の「見る」と、「観」は性質が似ているからこそ、そこから「観」に気付くことは簡単かもしれません。
眼鏡をかけているのに探している状態です。

悟りの境地で何を知るのかというと、既に知っていてそこから離れたことはないけれど気付いていないだけの「観」を知るということです。

悟りは、普遍的な物理現象です。個人の自由な意思と努力によって悟るのではなく、数学的に決められた位置に悟りという現象は起きます。

「観」は一つ二つと数えられるモノではありません。
「観」は、その人の「観」、あの人の「観」と区別できるモノではありません。
「観」は唯一として存在し、全ての人の五蘊の根底に埋め込まれています。

「この世の全ての人は、同一人物」とは、神秘的なことではありません。
「この世の全ての人は、同一人物」とは、数学的、物理的な構造です。
人々の持つ主観に実在の感触を与える「観」は、真の意味で区別ができない構造です。区別ができないとは、人から見た構造で、もともと唯一として存在します。

縁起縁滅の法とは、一切が相依相関し振動循環する構造のことです。その構造から諸行無常諸法無我、一切皆苦ということが示唆され、空という境地が現われます。
空は、全知の境地で、「観」そのものの状態を如実に知ります。
「三心平等」「天上天下唯我独尊」「この世の全ての人は同一人物」「意識は一つとして存在する」ということを直観します。

この世界観が常識の世界は、まだまだ先のことになるのかもしれません。

戦争状態で空爆の下に立つ人、1000年後の未来に立つ人、地球外の存在、全て自分です。


そもそも日本では、仏教そのものが一般的な常識になっていないのかもしれません。
私は、28歳まで仏陀のことを架空か実在かよくわからないレベルの人物かと思っていました。ギリシャ神話、日本神話、封神演義などの登場人物という感覚でした。
覚者のことを仏陀と呼んで、もともとはゴータマ・シッダールタという名前だったなどということも知りませんでした。
般若心経に興味を持たなかったら実在の人物と知ることはなかったと思います。
般若心経を何かとてつもなくすごそうなモノとして現代にまで伝えてくれたことに感謝です。
この前、テレビの高校世界史かな?そういう番組で仏教について解説していました。私が高校生の頃は、選択授業で世界史をとらなかったのかもしれません。
私は、自分から興味を持たないと、仏教を知ることができない環境でした。

相対性理論は、どのくらいの人が、ちょっとは知っている状態なのかな?量子力学は?
でも、高校レベルの数学、物理、化学、生物とか、みんながみんなちゃんと知っているわけではないと思う・・・。私も含め(汗)

相対性理論の世界観で観るに至る。
量子力学の世界観で観るに至る。
縁起縁滅の法の世界観で観るに至る。

私としては、「縁起縁滅の法の世界観で観るに至る」「縁起縁滅の法に自在して観る」ということが大切です。
でも、縁起縁滅の法は、今現在の物理学が示す世界観と離れて存在しません。むしろ今現在の物理学が示す世界観が、縁起縁滅の法そのものです。
「悟り」が仏教の言葉だけでなく、数学の言葉に使われることもあったりして。

アリストテレスの世界観があってこそ近代科学は発展しています。でも、アリストテレスの世界観のままではありません。仏陀という存在を神格化し、仏陀の世界観を絶対視して現在の科学的な視点を無視することは、アリストテレスの世界観を宗教と結びつけ、思想を崇拝し、世界観の発展が停滞したことに繋がると思います。停滞があってこその今かもしれませんが・・・

悟り、縁起縁滅の法、諸行無常、諸法無我、空、天上天下唯我独尊、は神秘的なものではなくて、ただの物理的事実にすぎないです。
となると相対性理論、量子力学などは、なんとなくでも知っておく方が仏教の理解は深まると思います。
相対性理論、量子力学は、本で読むしか知る方法はありません。Newton、日経サイエンス、ブルーバックスに頼る。もしくは研究者です。
でも、縁起縁滅の法は、この身一つ瞑想などで知ることができます。自己を観察するだけです。


縁起縁滅の法は、両極に振動することが存在を現わす条件なので、善意という局面が発展すると悪意という局面も発展します。

「この世の全ての人は同一人物」ということが数学的に示唆され、常識として受け入れられる時代とは、今の人が慈悲や善意と感じることが当たり前になることです。
慈悲や善意など、基本的に受容的なことに対するコストが低くなるということです。
慈悲や善意にあふれる世界は、素晴らしいことではありません。普通のことです。
そして、拒否的な局面がゼロになることはありません。


ここまで書いたことは、『量子とはなんだろう 松浦壮』という本を読みながら考えたことです。世界観の変化について何回も書かれています。

P12 量子が発見されて100年あまりを経た今、私たちは、量子力学をベースにした科学技術に囲まれて暮らしています。量子を単純に「不思議だ~」と思うだけの時代はそろそろ終わりです。この本が「量子なんて当たり前」の時代に向けた一助になれば幸いです。

P38 日常的な出来事をほぼ完璧に説明できていた古典物理学を根本から見直さなければいけなくなったのは、観測技術が向上し、五感ではたどり着けない精度で自然界を観察できるようになったからです。

P71 光を単純な波と考えたり、電子を単純な粒子だと考えたりすると、自然現象の説明が破綻してしまいます。これは、光や電子のような存在が五感を通じて培われた概念では表現しきれないことを意味しています。「世界は見えているとおりである」という幻想が本当の意味で消滅したのです。

P72 私たちの観る景色の背後に実は量子があるのだと知ると、世界の”観え方”が変わります。今この時代は、世界観の変遷が起こっている真っ最中と言ってもよいでしょう。

P275 その時代を生きる人々はものの見方が今とまったく違うはずです。生活の中に量子コンピュータが入り込み、小学校で量子計算を教わり、さまざまな物理現象も当たり前のように量子の視点で説明される。これらは、まぎれもなく「はじめに」で述べた量子の経験です。この経験によって育まれた直感は、古典物理学で育まれる直感とは全く異なるはずです。100年後に生を受けるはずの量子ネイティブな子供たちが、どんな直感を育み、どんな眼でこの宇宙を眺め、どんな世界を創っていくのか、私は楽しみでなりません。

P278 量子の理は宇宙の理です。にもかかわらず直感的な理解が及ばないのは、単純に、今の私たちは量子の理で世界を観ていないからです。人類の直感を支える自然観はこうしているあいだにも常に更新されています。いずれ必ず、量子の理が人の直感を支える時代が来るでしょう。

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