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言うても欠けてるものを補いたい問題について。

今日は満月。しかも皆既月食だそうですね?
昔のインドや中国では月食は悪い予兆とされていたので、
なるべく見ないようにする方が運気が下がらないそうです。

昔は君主の徳が欠けると月食や日食が起こったり、
彗星などのあやしい星が現れるとされていましたので
そういう解釈になるわけです。

そして新月満月は仏教では布薩を行うタイミング。
今日の満月は自分の徳が欠けてないかとか、
過去の引っかかっている感情などを
省みてクリアリングするのもいいかもですね。

祥鈴庵圓珠です。

前に「いろんなご供養は欠けてるものを補うためじゃない」という
お話を書きました。

じゃあ欠けてるものを補いたい場合はどうすんのよって話なんですが。

なんとなく欠落感や足りない感じがする、と言うのは
誰にでもあります。

これは結構重要な感覚です。

なぜだかわからないのに欠落感や足りない感じがある、
あるいは妙に人から指摘されると言うときは
自分の見えていない、あるいは見ようとしていないところに
問題がある可能性に気づけるからです。

それが生きづらさにつながっていて、
人生や生活に支障がある場合は
それが何なのかを知り、
解決して行く方向に向かう必要があるでしょう。

人というのは、問題があると思うと
解決したくなるものですが、
多くの場合、解決策も問題も外側ではなく
内側にあります。

反省するとか自分の悪いところを探すとか
自分を変えなくてはと頑張るとかそういうことではなく、
なぜそれが起こっているのか、
その問題は本当はどんな顔をしているのか
ということをよく見ること。

それをまず考えた方がいいでしょう。

反省や悪いところを探すというのも、問題の顔を見ないために
やっていることかもしれません。
そもそも、その問題が「悪い」ものなのかどうかもわからないです。

自分の心の欠落感や欠けた感じというのは、
本人にとっては居心地の悪いものなのですが
その人の心の個性を作るものでもあります。

何が足りないと思うか、何が欠けているのか、それは
本当のところはその人自身でなければわかりませんし、
本当の意味でそこを満たすことは、その人自身が行うのが
一番うまくできるはずです。

周囲の人たちや専門家はその手助けができるだけ。
もちろん、手助けは大いに頼んでいいのですが。

もしかしたら、欠落を満たすのではない
別の解決法があるかもしれません。

問題の顔を見る、ということは、
自分の知らなかった自分の顔を見ること。

でもそれも自分です。

その顔が白いか黒いか、美しいか醜いか、
そんなことよりも
それも自分なんだ、と思うことの方が大事。

だって、自分だから。

顔が白いか黒いか、美しいか醜いか、善か悪か、光か闇か。
それを考えることが、皆さんが嫌う「ジャッジ」というやつです。

人間というものはジャッジの剣で切り刻んだくらいのことで
すっかり解ってしまえるほど単純なものではありません。

それが自分ならなおさらです。

「如実知自心」という言葉があります。
これは「実の如く自心を知る」、つまり本当の自分の心を知ること。
これができれば如来になれます。

そして、私たちはもう
自分がもともと如来と同じもので出来ていて、
如来になりうる本質を持っている
ということを知っています。


大切なのは、自分の価値を内側に見つけることです。

観音さまは常に慈しみの眼で衆生を見ておられます。
私たちは観音さまに倣うことができます。

そして、衆生には必ず自分自身が入っているということ。
それが一番最初に起こさねばならない慈悲心です。


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