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見張ってなくてもいい。

今日は虚空蔵菩薩さまのご縁日。

虚空蔵菩薩さまはお地蔵さまと対応しているかもしれない
仏さま。
虚空の蔵と大地の蔵ですしね。

仏教伝来の当初は併せてお祀りされた例もあったようですが、
あまり一般的にならないままだったようです。
虚空蔵求聞持法が有名すぎるかも。

人間と仏さまにとって善悪の判断というものは少し違います。

以前、善悪は人間にあるもので、仏さまにとって善いことが
あるとしたらそれは衆生を利益するもの、
悪いことがあるとしたらそれは衆生を利益しないものに尽きる
と書いたことがありますけども。

これはやっぱりそうなんだろうなあ、と思うわけです。

人間の意識の中で思う善悪を超えて、
仏さまの視点に立った時に見えてくる善いこと悪いことは
仏さまに見られている私たち自身にとって
究極よいものになるか悪いものになるかを
時間空間を超えて見ておられるのだろうという気がします。

なので、今この瞬間に起こっていることに対して
人間的考えで善悪を判断しても、それが仏さまにとっての
善悪と一致するかどうかはわかりません。

一致することはもちろんありますけどもね。

私たちは人間なのでやはり人間的判断を瞬間的に
反射的に行ってしまうことがほとんどです。

それがある意味私たちの限界でもあるのですが、
これは仏教的にいうならやはり
煩悩や執着によって判断力や認識がくもらされているから
そういうことになってしまう、ということでもあります。

そして人間的判断のけっこう大きな弱点は
外にその原因を探すことかもしれません。

なので、私たちはついつい自分の身の回りの人やものが
自分の判断や認識に合致しているかどうかを監視して
ヤキモキするということをしてしまいがち。

小さなお子さん相手に、その子の判断力を超えて
危ないことをしかねない、という場合は
もちろん見張っていた方がいいのですけどもね。

自分の周りの親しい人たちがしていることについて
自分の判断と合っているか、認識と合っているか、
何か思っているのと違うことをするのではないか
そういうふうに人を見張らなくてもいい。

そう言われると反射的にいろんな反対意見が
怒涛のようにわくかもしれませんけど。

ていうか、私そうとうわきまくりでした(笑)

公正かどうか、安全かどうか、適切な行動かどうか、
その人にとっていいことであるかどうか
そりゃあもう見張りまくってました。

これ、めちゃめちゃ疲れます。
その上に、その人からはだいたい感謝されません。

これはそもそもが
大きなお世話で
ジャッジで
境界を踏み越えていて
コントロールしようとしているからです。

自分は正しいと思ってやってます。
だから気づきにくいし、止める気になんて
なかなかなりません。

でも、これをやっている限り、
お互いにとっていい関係は築けない上に
お互いの中にどろどろと怒りが溜まってきます。

みはらなくていい。
適切な距離を保って見ていればいい。
そういう自分を手放してもいい。
その人は必ず自分で気づきます。
その人にとって最善なことに。

それが仏さま方が私たちを見るやり方だ
と気づいたら、
仏さまに倣ってみたらいいのかと思いつくことが
できるかもしれません。

失敗やいさかいやディスコミュニケーションを
どれだけやってしまっても、
今日より明日はちょっとましな自分になるために
そういう方向に自分を向けてみてはどうかなと思います。

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毎月24日はお地蔵さまのご縁日。
この日に法要を営み、
生きとし生けるあらゆるものへの祝福
この世界にあるあらゆる諸霊へのご供養
全ての大地から生まれるあらゆるものへの感謝
をお祈りいたします。

お地蔵さまへのお願い受け付けてます。
締め切りは5月20日です。

宗派宗教にかかわらずお申し込みいただけます。

お問い合わせ、お申し込みは下記アドレスまで。
enshu0615*gmail.com (*を@に置き換えてください)

折り返し申し込み要項をお送りします。

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