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見ているものが違うということ。

先日、僧侶友達と数人でおしゃべりをしていた時、
とあるお寺ではお坊さんの職員が少ないので
一人でいくつもあるお堂でおつとめして回らなければ
いけなくて、朝から晩まで拝みっぱなしらしいよ
という話をしてくれたのですが、
それを聞いて居合わせた全員が異口同音に
「羨ましい…」とつぶやいたので、
そういうわけで気があってんのね、このグループ。
と思ってしまいましたよ。

先日、「神も仏もあるものか!と思ったことありますか?」
って聞かれたのですけども。

そりゃああります。
でもそれはお坊さんになる前の話ですね。

人生でいろんな辛いことに出くわします。
理不尽に思えるような経験や、
人の思いがけない生死に関わるような事件があった時
大変な努力があまりにも実らなくて全く無駄に思える時
こういう時にそんな風に思うことが多いと思います。

でも実はこの考え方、ちょっとヘンなんです。

神仏は理由なく人を罰したり、ご褒美をくれたりする
という前提がここにはあるからです。

因果応報の話を何度かしましたけども。

何かやったら同じことが返ってくる、
というルールはあっても、その発動に細かく神仏が
関わっている、という感じはあまりしないです。

一切衆生がそのルールを理解した上で、それぞれにとって
望ましい方向に行くように働きかけをしている、
という感じですかね。

その際の「それぞれにとって望ましい方向」というのは
もちろん神仏から見て望ましい方向であって、
それぞれの衆生が望ましいと考えるものとは
違うこともあります。

生きている者が考える悪いことの最たるものは
死が訪れるということでしょう。

しかし、死は単なる生命の状態の移行であって、
本来的に悪というわけではありません。

善悪の判断は人の側にあるのであって、
神仏が定めたわけではないです。

善悪の判断が人の側にあるということは、
それが必要なのは人と人が暮らして行くため。
人と人との間のルールであって、
神仏のルールではないということ。

もし仏さまの目から見た善悪があるとしたら、
衆生を利益することが善
衆生を利益しないことが悪
に尽きるという気がします。

神さまがなぜ悪魔や地獄を作ったのか、
仏さまがなぜ病気や苦しみをなくしてくれないのか。

私たちには理解しにくくても、恐らくはそれが
衆生を利益するからなのでしょう。

人の思う善悪と、神仏の衆生を利益する働きが
必ずしも一致しないので
人はつい「神も仏もあるものか!」と思ってしまいます。

それでも起こったことに何かの意味があるのだとしたら
それを理解するには仏の視点に立つ必要があるかもしれません。

血を吐くような痛みの中でも
のたうちまわるような苦しみの中でも
抜け出すためのヒントがあるとしたら、
そこかもしれません。

仏教の膨大な経典は、その仏の視点がどういうものかを
私たちに教えてくれます。

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