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敵と味方ってどこが違う?

今日は愛染明王さまのご縁日。

お地蔵さまのご供養の後に愛染明王さまをご供養すると
大地と空が呼応しあう広々した気分になります。

今日はよい天気。愛染明王さまの日輪みたいに
キラキラしたお日さまがきれいです。

お不動さまと愛染明王さまはしばしばペアでお祀りされます。
ということでこちらもどうぞ。

愛染明王さまは怨親平等を教える明王さまでもあります。
怨親平等とは、憎しみを持っている相手も親しみを持っている相手も
等しく扱うということ。

これは無分別の一つの形でもあります。

現世的にはなかなかハードルの高いことではあります。
しかし、仏教は基本これを目指すのですね。

以前、慈悲の瞑想のことを書きましたけども。

慈悲の瞑想は、自分や親しいもの、生きとし生けるものに加えて
自分が憎むもの、自分を憎むものに対しての慈悲についても瞑想します。

ちなみに「瞑想」は、古来の仏教や密教の言葉では
おおむね「瑜伽」とか「禅定」「止観」と表現されます。
「三昧」「修行」というのも同じような状態を表しています。

実は「瞑想」という言葉は
昔は宗教的文脈ではほとんど使われてません。
ですので、瞑想という言葉は宗教的実践より広い概念のもの
と言えますね。

それはさておき。

じゃあ敵と味方って何が違うのかというと。
一言で言っちゃうと、「自分がそれを敵や味方と思ってるから」
ですね。

自分の嫌なものを排除する瞋恚の心とか
自分の好きなものに愛着する渇愛の心とか
要はその心が敵と味方を決めているわけです。

としたら、その心を変えるということがその二項対立を
解消する最も適切な方法です。

「それができないから苦労してるんじゃー!」
という声が聞こえるようですけれども(笑)

ということは自分の中に対立があることに気づいているし
それが自分にとって望ましくない状態だということにも
気がついてるということですよね。

こういう時が神仏の出番なのですよ。

自分ではどうすることもできない感情、
どうにかすることがすごく難しい環境、
あまりにも大きすぎて手に余るような状況。

こういう時に「祈りましょう」とよく言われるのですが
ただ祈るのではなく、自分の心を変えようとする方がいいです。

祈ることは神仏にその手に負えないものをお預けすること。
泣いて叫んで怒って暴れてもいい。
神仏はわたしたちよりも慈悲深く、懐が深くて
いろんなことを見通しておられます。

そういう方に持ち重りのするものを預けましょう。

そして感情の波濤が落ち着いたら、次は実践するステージです。

自分の手に負えないもの、心の中の葛藤や痛みを観察して
状況を今とは違う視点から見ようとし
場合によっては情報を収集したり人の手を借りたりして
自分のものの見方を修正する落とし所を見つけること。

これはけっこうしんどいこと、負荷のかかることです。

しかし、その修練をすることで宗教やスピリチュアルが教える
心の平安を得る方向に進むことができます。

短絡的な行動に出て、やった感を得るのもいいですが
次に同じように心を乱すことに直面した時
心の平安を得ようとしたその経験が必ず役に立ちます。

次回に備えてレジリエンスをあげる。
そういう戦略をとった方が堂々巡りにならなくてすみます。

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