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日常の中にちりばめられたほのかな煌めきを集めていくことがしあわせに生きるってことかもしれないな

繰り返しのような日常のなかに小さな変化があって、夜空にほのかに瞬く星をみた時のように、心のなかがほんの少しほわんと灯がともるような煌めきのような感覚は、だれの中にも確かに在るのだ。

しあわせかどうかなんて考える必要はなくて、ただ日々を大切に生きていくことで、自分が思うように生きていられたらそれが一番なんじゃないかな。と思う。しあわせかどうかは、つまり自分自身の主観でしかなく、人から見てどうかとかみんなと同じが良いわけでもなく、自分がしあわせだと感じたらそれでいい。

誰の中にもしあわせは確かに存在しているし、みんな違ってそれでいいのだ。と、この映画を観て思った。
木漏れ日のように、きらきらと確かにそこにあるのに、それは一瞬一瞬変化しているのに、忙しすぎて気づかない。人生が終わるかもしれないその時に、何かに失望して逃避したその時に、人はやっと立ち止まることができて、何かに気づくのかもしれない。

毎朝、神社の周囲を掃除する竹箒の音や鳥の声で目醒め、身支度をして小さな鉢植えたちに霧吹きで水をやり、自動販売機の缶コーヒーを一本買い、夜明けの空を眺めながら車で仕事に向かう。日常のほとんどは習慣化され、日が昇り朝がきて働き、昼休みにいつもの場所で木漏れ日を眺め写真を撮る。決まった時間に決まった場所へ行き、決まったものを食べて決まった毎日を繰り返す。

まるで変化のない毎日のようで、その日々のなかに小さな出来事や出会いがちりばめられていて、時折それが煌めきとなって心に小さな灯をともし、し雫となって傷をなめる。代り映えのないつまらない毎日に見えるけれど、一日の終わりに布団の中で眠くなるまで読む文庫本や、いつもの店で交わす挨拶や少ない会話も小さな新しい世界がある。

忙しさに流れていく時間を追いかけて生きていると、気づくことさえできず存在すら感じられない一瞬を彼は感じながら大切に生きている。ささやかなようでなんとも贅沢なことのように、私には思えた。

彼の部屋にはほとんど物がない。本とカセットテープとフィルムカメラで撮った写真を入れる缶と仕事着と日常に必要な洋服と日用品が少し。そして、いまここ。過去さえも未来さえも持たず、いまここを生きている。
高級な車も食事も家も持たないけれど、彼はいまこここの時に幸せを見つけて積み重ねて生きている。

しあわせとはなんだろう?豊かに生きるとはなんだろう?

あまりに忙しすぎてあまりに持ちすぎた。
みんなのようなしあわせ、キラキラした日常。
人からどう見られるか?どう思われるか?人並のしあわせなのか?
そのた大勢の中で自分の人生は映えているか?

そんなことばかり求めている人が多いように思う。
婚活や恋愛や仕事にしても、自分はどうか。を忘れて「映え」を追いかけ続けている。それ、本当にあなたのしあわせなのかな?

何を選んでもどう生きてもそれは、その人にとっての正解。
人と比べて追いかける人生も自分で選んだなら、それも正解。
ならば、他人ではなく自分に問いながら自分を生きていきたい。と私は思う。

しあわせは、自分で選択した一瞬一瞬のなかに、煌めきを見つけ続けていくことかもしれない。しあわせに豊かな人生を生きるって、そうやって積み重ねていく行動なんじゃないかな。

どんな毎日も誰にとっても、それは間違いなく「PERFECT DAYS」なのだ。

掬乃 ジュンコ


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