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違う誰かを生きるということ

同じような人がここにもいたと思った。
「自己肯定感が低いから、お芝居は違う人の人生になりきれるのが楽しい」
テレビの中で、コンプレックスのかけらも持ち合わせていなさそうな、女優が話していた。

あぁ、そうなんだ、だからなんとなく気になっていたのか。

聡明で知的で凛とした彼女のことがとてもとても気になっていたのは、完璧そうだったからじゃない、きらきらした笑顔の中のその瞳が、とてつもなく暗い深海のようにおびえて見えることがあったからだ。なんだ、そうだったのか、同じものを感じたのはその目だったのだ。


わたしは、子供の頃から、空想と本とごっこ遊びが好きだった。
本を読めば、その世界が映像となって目の前に広がり、息遣いやにおいまで感じたものだった。
本を読んでいれば、違う世界に旅ができた。

小学校高学年になると、自分で物語を描いた。
自分が思う世界で生きることができるからだ。
ここでは、いつだって何にだってなれ、できないこと等何もなかった。
自分が思えば、それができる世界だ。

中学になったら、演劇部に入りたかったけれどその学校にはなかった。
自分で詩を書くことに嵌った。
高校でやっと演劇部に入ると、毎日は夢の連続だった。幸せだった。

現実の高校生活は、中学の途中あたりから覚えていない。
その頃のことはほとんど記憶がない。

大人になると、なりたい人のキャラクターを、現実で演じるようになっていた。強い人になりたいと思えば、スーツにピンヒールを身に着けて強い女を演じた。愛されたいと思えば、相手の好みそうな女を演じた。

いつだって、それは本当の私ではないのだが、自分でない誰かになっている方が、安心で楽ちんだったからだ。

いつのまにか、自分が本当はどうしたいのか、自分はどう感じているのかさえ、わからなくなっていた。

別のキャラクターを生きるのは、自分を明け渡すことではない。
現実逃避では、何も変わらない。
それがわかったのは、恋愛だけがうまくいかなかった頃。

自己理解、自己受容、自尊心の上に、なりたいものを理解して目標にする。

仕事として演じることと、わたしがしてきた事は違う。
いずれにしても、この土台を失うことはとても危うい。
本当の自分自身を見失う。

自己肯定感が低いから誰かになりきるのではなく、「あるがまま」を受けいれたその先に、目標とする誰かの目標とする何かにチャレンジしてみる。

「私が私でいる」その先にこそ、本当にめざす自分の人生があるのだから。

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