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「才能」は「コミュ力」に負けるのか。「笑いのカイブツ」を観て。

笑いのカイブツをみた。岡山天音の怪演が素晴らしかった。

「コミュ力」VS「才能」


この映画のテーマは「コミュ力」と「才能」だ。

友達もおらず実家で永遠とラジオの大喜利企画に応募をし続ける主人公のツチヤ。彼はいつもストップウォッチを片手に5秒でネタを一個作る、というのを繰り返している。1万時間やれば誰でもプロになれる、という話があるけど、ツチヤは大喜利の世界ではアマチュアながらプロだった。

そんな日々を送るうちに、いつも投稿しているラジオでMCを務める芸人xxxから、「このラジオを聴いてたら、一緒に企画をつくろう」と誘いがかかる。長年積み上げてきたツチヤの才能が認められた瞬間だ。構成作家見習いとして上京するツチヤだが、彼は極度にコミュ力が低いという問題を抱えていた。一方で、自分が積み上げてきた努力を信じているので、自分より面白くない企画に対しては一歩引くことができない。話したいけど、上手く話せない。その軋轢の中でツチヤはどんどん苦しんでいく。

ツチヤと対比して描かれるのが同じ構成作家の氏家だ。彼は後輩のお手本のような存在だ。菓子折りは忘れないし、先輩のことも立てる。そしてツチヤが先輩に喧嘩を売ろうとした時にも、彼のことを庇う。そして、それを打算なくやっている。

結局、ツチヤは東京の世界でやっていくことができず、地元に戻ってくる。

物語をすごく抽象化すると、才能を持ったものが活躍できずに終わる、という話だ。

才能があるものが誰かに見出されて救われて、自分の居場所を見つけ幸せになっていくという物語は多くあると思うが、笑いのカイブツはそれとは逆だ。映画の終盤で多少の救いはあるが、ツチヤのコミュ力の低さが、全てを台無しにしていく。

「コミュ力」偏重の時代

「コミュ力」というのは今の時代当たり前に聞く言葉になった。それと同じように「コミュ障」という言葉も聞く。就職においても「コミュ力」の高さは採用要件に求められるようになっている。

そこで求められる「コミュ力」は当然ただ単に「コミュニケーションが取れること」ではない。空気を読む、相手の話を正しく理解する、自分の前提と相手の前提が違うことをわかって伝える、具体的な話と抽象的な話が行き来できるなど、普通に生きていいるだけではそう簡単に身につくものではない。

「コミュ力」が重視されるのは、それ相応の理由があるだろう。多様性が大事とされ、時代の変化の速さから、それぞれの世代や住んでいる環境によって、常識が細分化されている中で、相手とうまくやっていくためには高い「コミュ力」が欠かせない。

この作品は主人公であるツチヤ本人の自伝的小説を下敷きにしているせいもあり、随分現実的な映画だ。小説自体は読んでいないため、わからないが映画以上に現実の厳しさがあると思う。

ただ才能があってもコミュ力がなければ成功することはできない。言葉にすると、非常に悲しいというか、人によっては絶望を突きつけられる作品だ。

「全力」は「コミュ力」に勝る

とまぁ、映画の内容だけを見ると気分が沈むのだが、一歩引いてみると面白い事実がある。

それは、悲しい現実が映画となり、多くの人を惹きつけているという点だ。ツチヤの人生は本になり、映画作品となったことで、一つの成功を収めたと言える。しかも、本作の俳優陣はかなり豪華だ。主人公は、注目の若手俳優、岡山天音が務め、脇を固めるのは、菅田将暉、大賀、松本穂香と名優が揃う。

ツチヤがハガキ職人に全振りしたという人生は、紛れもなくそれを続けられた才能の結果であり、才能がコミュ力に勝った瞬間と捉えられる。

一人の小さな物語が、誰かの心を動かす大きな作品となる、というのは珍しい話ではない。自伝的な作品の多くはそれにあたるだろう。かつては、偉人や偉業を成し遂げた人の生き様が物語となっていたが、ツチヤのような人生であっても、誰かの心に響くというのは、一種の希望に思える。

好きなことを突き詰めて、全力で生きていれば、思わぬ形でその全力さが報われる日が来る。そんなことを思った映画だった。

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