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社会派ドラマがわかったら、大人なのか?

つい最近、池井戸潤原作の「七つの会議」を見た。

この作品は、野村萬斎演じるグータラ社員が、とある事件をきっかけにその頭のキレ味を働かせて、彼の務める会社でおこった「ある不正」を解決していくという、権力にあらがう物語だ。

作中ではノルマ達成のために社員に暴言をはく場面や、社内で足の引っ張りあいが描かれている。自分はこんな環境絶対無理だし、そもそもそういう経験をほとんどしてこなったが、おそらく作中で描かれているような中規模〜大規模の会社に勤め上げているビジネスマンであれば、自らの経験を投影し、ぐっとくるような場面も多いのだろうと思いながら見ていた。

僕は大学時代から映画がそれなりに好きで、最近ではその好きに拍車がかかり、土日は最低一本、多いときは三本ほど観ている。とにかく数を重ねる様に観ていると、社会人になってからの経験や知識範囲の影響で、好きな映画が徐々に変わってきた様に感じる。

「七つの会議」のような社会問題を描くものや企業でビジネスマンが奮闘する系の映画は随分と楽しめるようになった。純粋に知識が付いてきて、映画で描かれるメタファーに気づくようになったり、自分の社会人としての経験が勝手に投影されたりしているからだろう。

一方、少し不思議系のラブコメは感情が入りにくくなってしまった。作者がどれほど意図しているかは分からないけど、男性の理想像として女性が描かれたりしていると、「現実はそんなことないよな。。」とか「社会的に見てこういう枠にはめた女性像はどうなんだろ、、」と思うようになったりして、映画は虚構である前提とはいえ、現実との比較をついついするようになってしまった。そんなふうに「ロマンス」を楽しめなくなってしまったというのは、大人になった証拠かもしれないね、と友人に言われたりした。

だけど、社会派ドラマを楽しめるようになったら大人なのだろうか。楽しめるとは、その映画の面白さがわかるということだ。「面白い」はいくつもの要素が絡み合って出来ているが、その一つは「共感」や「投影」だろう。「わかる、わかる〜」となるから面白く感じるのであって、全く共感出来ないモノに対して「わかる」という面白さを見つけるのは難しい。

例に挙げた「七つの会議」では冒頭でも言ったように、人間関係が発端として起こる不正が描かれている。そして、映画のラストで野村萬斎は「この世から不正がなくなることはないだろう」とエピローグで独白する。

社会問題となるほどの不正自体は、頻繁に起こるモノではないかもしれないが、人間関係や会社のシステム(過度なノルマ達成とか)によって小さく嘘をついてしまった経験は多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。自分自身、怒られるのが嫌でちょっと盛った報告をしてしまったことが過去にある。

だが、フィクションで描かれるような企業状態に共感してしまうこと自体、実は精神的には幼稚になっているのではないか、と思う。

嘘をついてはいけません。他人を傷つけてはいけません。

こんなこと、小学生に入る前の子供でもわかることだ。むしろ、彼らの方がこれらを純粋に実行している気もする。

こうした状況に共感しているというのは、その状態を「仕方の無いこと」として受け入れてるとも言えるんじゃないだろうか。

「そうはいっても、きれい事で世の中は進まない」という意見も当然あると思うけれど、子供でも守れる小さな約束ができない様子がビジネスマンを対象としてフィクションの中で描かれざるを得ず、共感を得ているというのは、精神的に大人な人が実は本当は少ないという事実を世の中に突きつけているのかもしれない。


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