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「読書」についての考察①—本を読む「意味」とは

書籍は青年には食物となり、老人には娯楽となる。病める時は装飾となり、苦しい時には慰めとなる。内にあっては楽しみとなり、外に持って出ても邪魔にはならない。特に夜と旅行と田舎においては、良い伴侶となる。—キケロ

僕は本が好きだ。

気になる事柄があると、すぐにAmazonにアクセスし、関連書籍をポチってしまう。おかげで読んでない本がどんどんたまっていく。僕の作業机の横にあるローテーブルにはいつの間にか本の塔が出来ている。

この塔を眺めているとき、ふと気づいたことがある。ここに積み上げられている本や本棚に入った本の中で、本の内容を覚えているのか一体何冊なのか。

ビジネス書や学術書はもとより、小説のようにストーリー仕立てになっている本でも、あらすじは語れど、詳細な内容は穴の空いた鍋のように流れさってしまっている。

では、本を読むとはどういうことなのか。本を読んだ状態とはどういうことなのか。そんなことについて考えたいと思う。

読んでない本について語ってみる

読書について考える上で、その道のりを助けてくれる面白い本がある。

ピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」だ。この本は、タイトルの通りで、「読んでいない本」を語らなければならない場面で、その状況をどう乗り越えるかについて書いている。

まず、「読んでいない」状態を「ぜんぜん読んだことのない本」「流し読みした本」「人から聞いたことある本」「読んだことはあるが忘れてしまった本」に分ける。その後、「大勢の人の前で」「教師の面前で」「作家を前にして」「愛する人の前で」と状況を設定し、最後に語る際の心がまえについて懇切丁寧に解説している。

そもそも「読んでない本について語らなければならない場面」がどれくらい訪れるのかは謎だが、この本に即せば、仮に一冊も本を読まなかったとしても、本の内容を語り得るということになる。

例えば、今僕の目の前に、原田マハさんの「暗幕のゲルニカ」という小説がある。これはまだ読んでいない。もし、この小説をこのnoteを読んでいる人に語るとしたらこんな感じだろうか。

「暗幕のゲルニカ」はピカソの作品「ゲルニカ」を軸にすえた絵画にまつわるミステリー小説だ。ゲルニカはスペイン内戦中に、スペイン県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃をテーマとした作品である。

絵画をテーマにした彼女のミステリー小説といえば、前作の「楽園のカンヴァス」が有名だ。同作品では、二人のキュレーターがルソーの「夢」に非常に酷似した作品をめぐり、推理バトルを繰り広げる。「暗幕のゲルニカ」でも、「ゲルニカ」に紐付いた謎が、徐々に明らかになっていく。ラストシーンでの衝撃は前作に引き続き素晴らしかった。

原田マハ自身がフリーのキュレーターということもあり、小説内に登場する絵画の歴史的背景も知ることができ、ミステリー欲と知識欲、両方を満たすことのできる作品である。絵画に興味を持ったことのない方にこそ、オススメしたい一冊だ。

読んでみると明らかなように、内容についてはほとんど触れていない。強いていうならラストシーンについて想像で書いたが、だいたいのミステリー小説は最後でどんでん返しや読者が思いもよらなかった展開が待ち受けてるので、全く外しているということはないだろう。

タイトルから推察するに「ゲルニカ」がなんらかの形で関わることは間違いないから、超大雑把な骨子としてはぶれていないはずだ。

さて、この文章では僕はズルをしている。「暗幕のゲルニカ」は読んだことがないが、前身となる「楽園のカンヴァス」は読んでいるからだ。「楽園のカンヴァス」の内容についての方が、むしろ詳細に書いている。何がズルなのかというと、「読んでない本を語る」ために「読んだ本」を引用しているからだ。

だが、仮に「楽園のカンヴァス」を読んでいなくとも、絵画にまつわる話であると予測できるし、画面越しに語っている状況なかぎり原田マハさんについての情報はwikiなりで調べられる。もし、口頭であれば、話し相手に彼女のことを聞く。そもそも、話し相手が彼女のことをしらなければ、「暗幕のゲルニカ」の話があがることすらないだろう。

もし時間があれば、是非積ん読になっている本で試してみて欲しいと思う。たぶんTwitterの140字くらいなら書けるはず。

改めて読書の価値を考える

とまあ、読んでない本について語れることは一応証明できたわけだが、だからとって本を読む意味がない説明にはまったくならない。

語れることと、読んだことは全く違うからだ。

まず、語れるためにはなんらかの形で知識を身につけなければならない。そもそも「読書」という言葉を知らなければ「読書」について考えることはできない。「読書」の意味を知るのは、辞書からかもしれないし、実際の経験を通してからかもしれないが、どちらにせよ本を開くことなしに「読書」を語ることはできない。

また、読書の大きな意味の一つが「体験」だ。特に、小説において、読み進める中で沸き起こる感情の起伏は、まさに読書の価値といえる。こればっかりは仮説では生まれない。感情とは他者から与えられるものだと思うからだ。

では、ビジネス書などはどうか。ビジネス書を読んで感動することはあまりないと思うが、「考る方法」が豊富になる。フレームワークなどはその代表だろう。文字通り、いろんな枠で物事が見れるようになると、世界の見方が変わってくる。橋爪大三郎さんの「正しい本の読み方」にもこんな一節がある。

本を読まないということは、頭のなかに住んでいる著者や、作品の登場人物がいないということ。家族がいないでたったひとりみたいに、淋しい状態

例えば「暗幕のゲルニカ」を例に挙げると、そもそもピカソについてもっと多くの事実や考え方を知っていれば他の仮説を立てることができただろう。ピカソがどんな思想に傾倒していて、とか、誰からの影響を受けていて、とか。つまり、読書とは自分の中に沢山の人が住んでいるシェアハウスをつくるようなものだ。

さて、今回は本を読む意味について考えたが、次は本の読み方について考えたいと思う。

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