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「猫を棄てる」感想文ー私の父と祖父

村上春樹も人の子なんだな。そんな俗っぽい感想から始まって申し訳ない。

どんな人にも母がいて父がいる。祖父が2人いて祖母が2人いる。何かしらの事情があって離れて暮らしていたり、早くに亡くなって会ったことがない場合もあるが生物学的には存在するのだ。村上春樹にも、私にも。

私の父は生きていれば63歳。村上さんと近い年代で、父方の祖父は大正生まれ。村上春樹さんのお父様と同年代だ。

祖父は脚が悪かった。先天的に障害があったわけではなく、大戦で大陸に渡り鉄砲の弾が当たって負傷したと聞いた。傷痕を見た記憶はない。私が幼い時には杖をついたり電動車いすで散歩に出かけたりしていたものの、年老いるほどに他の疾病も出てきて寝たきりになり、ある日静かに息を引き取った。

脚の悪い祖父と働き者の祖母、2人の長男である父と結婚した母、子どもは私を含む三姉妹。田舎の7人家族である。祖父が亡くなったのは私が中学2年の時。私が産まれて祖父が亡くなる14年間、同居をしていたにもかかわらず、父と祖父が話をしているシーンがまったく記憶にないのだ。これは今回「猫を棄てる」を読み、父と祖父のことを考えていて初めて気が付いた。

私の故郷は米どころの田舎で、周りの家は専業農家や兼業農家が多い。我が家は祖父の脚が不自由で農作業ができなかったせいか、持っている田んぼを他の家に貸すだけで米作りにはまったく関わっていないかった。父は継ぐ家業が無いため、工業高校に進み大きな企業の地方支社で技術職として勤めていた。(余談ではあるが父が就職するまで誰がこの家の家計を支えていたのかまったく見当がつかない。戦争の負傷で相応な手当が支給されていたのだろうか。)

平日の父は仕事が終わるとすぐ家に帰ってきて夕飯と晩酌をしていた。車通勤で外で飲んでくるわけにもいかないからだ。父が夕飯を食べる頃、それほど遅い時間ではないが、祖父は奥の自室に戻っていたので顔を合わせることはない。休日の父も平日同様に家にいなかった。朝から夕までパチンコに行くか、趣味のスポーツチームに参加していた。たとえ家にいたとしても、父が祖父母の部屋に近づくことはなかった。盆や正月、家族で食卓を囲むときも2人が何か話していたという記憶がない。

祖父が亡くなって10年も経たずに父も亡くなった。問題が多く、素晴らしい父だったとは言い切れないけれど、父との思い出はいくつもある。

私の父と祖父の間には村上さん親子のように、猫を棄てに行ったけれどなぜか家に戻っていた、みたいな思い出はあるのだろうか。もしかしたら2人で出かけたことすらないのかもしれない。父と祖父はどんな親子だったのだろう。父は祖父に戦場の話を聞いただろうか。同じ屋根の下で暮らしながら、ほとんど接点を持たない父と祖父が、長い間連絡を取り合わなかった村上さん親子に重なって思えた。

父が亡くなった2年後、祖母も亡くなって、実家には母ひとりになった。私を含む三姉妹は県外に出ている。実家に戻って仏壇に手を合わせに行くと目に入るのは、祖父の軍歴が勇ましく書いてある表彰状のような紙だ。額に入って仏壇の脇のふすまのへりに飾ってある。私が実家を出てから、いつだったか帰省したときにいきなりそこにあった。県の歴史資料を調べる団体か何かが送ってきたそうだ。祖母は「本人が死んでからこんなのもらってもね。」と言っていた。

その紙に書いてあることによると、祖父は乗馬中に銃撃され、乗っていた馬は即死。祖父は現地で手当てされその後も歩哨などの任務をして帰国したらしい。最後にその紙を見たのは1年近く前で、私の記憶もあやふやだ。スマホで写真を撮って、年号と隊名からじっくり調べてみようと毎回思うのだが、その紙には祖父の軍歴を深く調べることをためらわせる地名が書いてある。南京だ。この本にも書いてあった地名。村上さんにお父様の軍歴を調べることを躊躇わせた地名。この地名は私たちに重くのしかかる。大好きな作家である村上さんもそうだったのか、とほんの少し心が軽くなった。次に実家に帰ったとき、私はその紙を写真に撮ることができるだろか。Googleの検索ボックスに連隊名を入れることが...。

本作を読んで父と祖父の関係についてあれこれと考えた。祖父の軍歴についてもそろそろ向き合っても良いのかもしれない。私だっていつ死ぬかわからない。村上さんの言葉を借りるなら、私も雨粒の一滴に過ぎない。私は過去の雨水を引き受けることができるだろうか。



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