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【家族】ダウン症の姉を何度も肯定してくれた園長のはなし

疑問のきっかけは出生前診断

出生前診断のニュースをはじめて聞いたのは、いつだったか。
もうあまり覚えていないけれど
はじめて聞いた時は、驚きに呆気にとられ、その後
怒りとも悲しみともつかない感情がわきあがってきました。

ダウン症の姉は、世間では「産みたくない」と思われるのか。
どう生きていくか、ではなく、そもそも生まれる選択肢を奪われるのか。
というどうしようもない事実に打ちのめされていました。

自分が妊娠したときも、障碍者が生まれてほしくないなんて
思わなかった。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の主人公の言葉に支えられていました。

この類のニュースが流れるたび、ヤフコメやブログやTwitterや
いろんなコメントをみて見たけれど
どれも「堕胎を責めるな」「間引きは自然の摂理」という意見が多く
ついには「障碍者の兄弟をもってつらかった」という「きょうだい児」という名前があることを知り、ついには

ダウン症の姉がいるのはごく自然のことだった

と言える人って、一体どれだけいるのだろう・・・?
もしかして「当たり前」と捉える方がおかしいのか・・・?

と考えるようになりました。

姉がダウン症であることに違和感がなかった

姉妹として、家族として、姉を疎んだことはもちろんあります。
「うっとうしいなぁ」「鈍くさいなぁ」
思ったことがないといえば、うそになります。

でも、姉はいつでも姉であり「追いかける存在」でした。
中学になり、私の方ができることが増えた後も、姉は姉。
物事を決める順番も、先に姉にうかがう。

姉であることも
家族であることも
ダウン症であることも
私にとってはA型とか日本人とかと同じくらいの感覚でした。

どうして、私は同じ感覚でいられたんだろう。
なぜ、よその過程では恥ずかしがったり、辛いというのだろう。

同性だから?
年が近いから?
妹ではなく姉だったから?

周囲と自分と、異なる環境はどこにあったのか。
過去をたどっていると、あるひとりの男性の存在が大きかったことに気づきました。

私立幼稚園の園長先生

幼稚園に通っていた頃、その幼稚園は私と妹が通っただけで
姉は私立の保育園だったのですが、通っていない姉のことをいつもいつも気にかけている人がいました。

園長先生は、いつも私に
「お姉ちゃん、元気? かわいいよねぇ。先生はね、お姉ちゃんのことが大好きだよ」
と声をかけてくれていました。

当時、それに対してどう返事していたかは覚えていません。

でも、ほんとにしつこいくらい(笑)に、しょっちゅう聞かれたなぁ~
と思い返すのです。

園長先生の言っていたのはだいたい
「お姉ちゃんはかわいいね」「先生はお姉ちゃんが大好きだよ」
というこの2つ。

先生、そんなに好きなら結婚すれば?
と聞いたような記憶がないこともない。

それでも先生はそうだね、と返事していたような気がします。

発表会とか、ブランコとか、モルモット抱っこしたこととか
そんな思い出とともに、この「お姉ちゃん大好きだよ」の言葉を
たびたび思い出していたのです。

そしてその言葉を思い出す時は
必ず私がダウン症やバリアフリーのことについて、考えているときだったりします。

園長先生の正体は・・・

もし、この園長先生のことばがなかったら。
私は
世間のダウン症に対する眼差しや差別に耐えられなかったかもしれません。

ごまかしたり、恋人に紹介したくなかったかもしれません。

なんとなく、いつも不安を覚える前に、この園長先生の
「お姉ちゃんが大好き」という言葉に支えられていた気がします。

「大丈夫。ちゃんと家族以外の人で姉を好きでいてくれる人がいる」
と思えたというか。うまく言葉にできませんが。

実はこの園長先生、幼稚園の責任者というだけじゃなく、別の肩書も持っていました。

彼は牧師さんだったのです。

私の通っていた幼稚園はプロテスタントのキリスト教で
毎週日曜には「日曜学校」と呼ばれる学校に行って聖書と聖歌に触れたり
(なかなかいけませんでしたが)

クリスマスではキリスト誕生の劇を行ったりしていました。
 
キリスト教では、ダウン症を含め、生まれた子は皆
「神の祝福」をもって「愛されるために生まれた子」という認識があります。

私自身はキリスト教徒ではなく、自宅近くにあったという理由で通っただけなので
今も詳しいわけではないのですが
それでも、このキリスト教の教えが背景にあったことは否めないでしょう。

「あなたのお姉ちゃんは、神様から愛されている」
そのことを、園長―牧師さん―は、30年以上経った今も思い出せるくらい
何度も何度も、私に教えてくれていたのです。

神様だけじゃなく、周囲からも愛されますように

「姉はダウン症のままでいいんだ! だって園長先生も好きなんだよ!」
というのはつまり
「姉はダウン症のままでいいんだ! だって神様も好きなんだよ!」
に置き換えられるのでしょう。

牧師は、神様の教えを伝えるのが仕事ですから。
園長先生は、その愛情深い仕事をめいっぱい、注ぎ込んでくれました。

全てがそのおかげとは思いませんし
姉自身があたたかい縁にたくさん恵まれてこれたのも、
ダウン症でも本人も家族も苦しまない、と思える大きな理由のひとつです。

世間が思うより、ずっとダウン症の人は自分の人生を楽しんでいる。
その家族も、自分の人生を生きている。
シンプルに伝えたいのに、自らを「きょうだい児」と呼び障碍のある兄弟をもって辛かったと叫ぶ人もいる。

自分のこの考えの原点が見えれば、解決策が見えるのでは
とも思い、記憶をたどりました。

宗教がすべてを解決するとは思わないけれど
この件については、キリスト教の教えが、身近にあったらいいのにな、と
思ったり。







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