「もうこんなに 戦いたい」

最近は作業をしていて、少しだけ間が空くとつい「クラッシュロワイヤル」というアプリをやってしまう。3~4年前に結構熱中してやっていたゲームなのだが、最近また再開してちょくちょくやっている。

このアプリは1対1の対戦ゲームで、一試合が3~5分くらいで終わるので、スキマ時間の暇つぶしに最適…と思いきや実際はそんなことはない。

なぜなら負けるからだ。そして俺は負けるのが嫌いだからだ。負ければ最後、顔は紅潮し、背中に汗をかき、心臓は早鐘を打つ。元の作業に戻っても考えるのは先ほどの負けのことばかり。俺のタワーを破壊したホグライダーの叫び声が、ゴーレムのうなりが、耳から離れない。

そしてまたアプリを起動し、気づけばかなりの時間を消費しているということが何度もあった。

しかも、不思議なもので勝ってもそこまでの感動は感じない。ふう。と息を吐いて作業に戻るか、無感動に再度「バトル開始」ボタンをタップするかのどちらかだ。

負けは勝ちと等価ではないのだ。いくら勝っても負けを帳消しにすることはできない。特に「クラロワ」の対戦は基本的に一期一会で、勝っても負けても同じ相手と再試合をすることはできないからなおさらだ。
(あと、「クラロワ」は3~5分で決着がつくという特性上、シーソーゲームみたいなことは起こりにくい、拮抗状態を破ってワンサイドで勝つか負けるかというような展開の方が多いので、それも負けの印象を強め、勝ちの印象を薄めるのに寄与してる気がする)


自分は中高生のころから結構な時間ゲームをやっているが、格ゲーやDTCGなどの対戦ゲーム以外のゲームはあまりプレイしない。それ以外でよくプレイするのはローグライク系くらいだろうか。

だから俺は自分のことを結構対戦ゲームが好きなのだと思っていたが、改めて考えると向いていないような気がする。どう考えても喜びよりもストレスの方がはるかに勝っている。

割とあらゆる趣味にそういう側面はあると思うし、そういう側面から受ける負の影響は性格的に受けやすい方だと思う。
例えばこのnote毎日更新にしたって、全く他人からの反応がないので正直苦痛な部分の方が大きい。

とはいえ、対戦ゲームはそれが顕著だ。(noteの反応とかと違って、明確に「勝ち」「負け」なのも大きい)

上を見上げればキリがない。そして自分の戦うランク帯が上がっていけばいくほど、当然周りも強くなってくる。そうなると本当に一握りのトップでない限り、続けていけば絶対負けの方が多くなっていくのだ。

考えてみれば非生産の極みだ。負け続けるゾーンに行くために営々とゲームをプレイしていくんだから。

結果より過程が楽しいのだ。という考え方はできる。実際にゲームをプレイするよりむしろ、戦略を立てたり、ああでもないこうでもないと考えている時間が楽しいという考え方。でも結局それもある程度行くと頭打ちというか、集中力の関係で思ったようにできなかったり、いくら考えてもどうしようもなくなったりしてしまう。

「動画勢」はそういう意味でとても健全な楽しみ方だなあと思う。一流プレイヤーはしょうもないミスもしないし、明確な答えを見せてくれる。

でも自分でやりたくなっちゃうんだよな。こんなことを書きながらも、普通にもうクラロワやりたくなってる。というか実際書いてる途中で何回かやった。(そして負けた)

なんか、DVを受けながらも離れられないみたいな依存症めいた不健全さを感じる。実際なんか脳内麻薬みたいなのが出ててそれの虜なんじゃないのかとも思う。

でも、確かに最初は純粋に楽しかったはずだ。そうじゃなきゃ続けてないし。また楽しさを思い出すまで、ちょっと距離置こうかな。

いや、やっぱ最後に一回プレイしてから考えよう。

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