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(まとめ)シューホフ 1-3「帝政ロシアから初期ソビエトにおける油田の開発と発展」


3バクー油田におけるパイプライン事業


 パイプライン事業

 アメリカ旅行から帰国したシューホフはワルシャワ・ウィーン鉄道会社の機関車の計画立案者として、首都ペテルブルクで働いた。また同時に軍医学院で工学について2年間学んだ。1878年、彼は鉄道会社と軍医学院での活動に区切りをつけて、アメリカ旅行で会ったアレクサンドル・バリの被雇用技術者として、帝政ロシアの植民地だったアゼルバイジャンへと赴任する(註1)。当時のアゼルバイジャンはほとんど開発されておらず、インフラの状況は劣悪であった。なので、まず彼らは石油鉱床を開発し始めるところから始まった。バリは、数年後にモスクワに建設事務所を設立し、将来が有望な石油ビジネスに参加するつもりであった。そしてシューホフはバクーで2年間滞在した。

 到着した年、すぐに、シューホフは長さ10キロメートルのロシアで最初の石油パイプラインを建設した(註2)。クライアントは「ノーベル石油」(註3)であった。まずバクーでの石油開発における直近の課題はバクー油田(石油掘削はアメリカで開発されていたし(註4)、バクーにおいても石油が地面に染み出していることも珍しくはなく、油田の存在は古くから知られていた)の採掘場から精製所への石油の輸送であった。長距離に渡る馬車での輸送コストは、一回に運ばれる石油そのものの価格の10倍の価格を要していた。(註5)そしてシューホフは25歳という若さでこのプロジェクトを任され、ロシア初のパイプラインを建設することに成功した。

 最初のパイプラインは油田のあるバラハヌィБалаханыからチョルヌィ・ゴーラトЧерый город(現在のホワイト・シティ)の10キロメートルを結ぶ直径7.6センチメートルのものであった。そして第2のパイプラインが同じバラハヌィ~チョルヌィ・ゴーラト間の別ルートを通る計12キロメートルに設けられた。さらに同じ年に第3のパイプラインがスカランスク~ジューチュスカヤ・コサに開通した(註6)。

 翌年(1879年)には、粘性の高い原油である「マズト」Мазут(註7)のための世界初の予熱パイプラインが完成した。それまでの水理学の講義では圧縮性も粘性もないような理想的な液体(とりわけ水)を理論の基礎としていたが、それらはパイプライン建設の実践には到底使用できるものではなかった。なので、現場に合ったこの粘性流体に対する研究が急がれ、マズトに関する基礎的科学研究をシューホフは現場で行うことになった(註8)。

 シューホフはこのマズト・パイプラインを計画するために、自分で構築したパイプラインで石油および石油製品の挙動を分析・検討し、最終的に配管内部の石油の移動を計算するための式を編み出した。それは鮮やかに液体の通過、液体の圧力、粘性、パイプの直径、パイプライン全体の長さとの相互依存性を示すものであると同時に、標準化のための最適解を導くのに使えた。そしてシューホフはもっとも効率的な送油速度を決定することができた。これらの経験をもとに、1924年にはグロズヌイからトゥアプセ(618キロメートル)とバクーからバトゥーミ(883キロメートル)の石油パイプラインの建設を行った(註9)。

 シューホフの発見した原理とそこから派生する数式は今日においても世界中のパイプライン建設に使用されている。(註10)シューホフの解決方法は科学的根拠に基づいており、彼はシンプルさ、経済性、便利さを常に原則において設計を行ってきた。シューホフは計画を立てるときに、まず実験をしてみて、同様の問題を解決するためのあらゆる種類のデータを収集して、新しい発見をした。

 

石油貯蔵タンク

 抽出された油はオープンピット(註11)か木製の一時貯蔵施設に貯蔵され、馬車や船で木製のドラム缶(バレル)によって運ばれた。火災の危険性は大きかったし、油が地面に漏れることで全域が汚染された。1870年代すぐにバクーを訪れたマクシム・ゴーキーは、美しくも悲観的な風景を印象的に説明している。この管理法で灯油は主に照明としてのみ使用された(註12)が、より高価なガソリン(註13)は蒸発してしまった。この問題を解決するためにシューホフは最初の鉄製の円筒形屋根付き石油貯蔵タンクを作り始めた。円筒形の石油貯蔵タンクの大きな金属の表面は個別の規格化された長方形が重なり合ったプレートから構成され、リベットで締められたのちに防水加工が施されている。これとロシア最初のパイプラインの建設計画は同時並行で成された(註14)。

 さらに1878年にシューホフは新しいタイプの鉄製の石油貯蔵タンクを開発した。この期間中、ツァー・アレクサンドル2世の広範な外交政策が行われた。それによりロシア経済の急速な発展が起こり、外国資本が国に流入していた。ロシア帝国内での活動を拡大することができるようにバリは、主要都市で矢継ぎ早に、蒸気ボイラーのための工場に加えて、技術者集団による建設事務所をモスクワに次々と設立させた。シューホフをはじめとするエンジニアたちは、国内および欧米企業との競争で起業家バリと協働した。アレクサンドル・バリもまたつぎつぎと想像力と汎用性の高い技術者を発見することに長けていた。

 2年以内に130基のタンクが生産され、1917年までは2万基を超えた(註15)。それらは最初の金属製のタンクでもあった。シューホフは、米国やその他の国で使用されている厚手の長方形の板金の石油貯蔵タンクの代わりに、砂の床や壁の厚さに薄い土壌を入れた円筒状の石油貯蔵タンクを開発し、材料の必要量を大幅に削減することに成功した。シューホフは1883年に小冊子でこれらの計算方法を発表している。この構造は原則として今日も使用されている。

 シューホフはすべての石油貯蔵タンクとその付属品を標準化して、新しい屋根構造をテストした。標準化により部品リストとその必要量、部品をつくるための材料、人的労力および諸コストが容易に決定されるようになり、計画がより簡単になった。また、さらなる標準化を求めて、プレートの切断とリベット穴の打ち抜きのためにステンシル(型板)が作られた。1881年にはヤロスラブリの10基の貯蔵タンクに、シューホフによる最初の各特定のコンポーネント(基礎、床、壁など)における専門作業チームが次々と前方に順次移動してゆく「組立ライン技術」が使用され、大量生産を可能にした。バリはその後、同じタンクを水、酢酸、アルコールだけでなくサイロ用にも連続して製造した。この事業は会社パロストロイが国有化されて以降も続く。

 エッケハード・ラムは「シューホフの仕事と人格を理解するためには、彼の作品の幅広さを把握しなければならない。おそらく彼は今日、起業家と呼ばれるタイプのひとでもあった。」と述べている。シューホフは単なる技術者やエンジニアといったものではなく、このころにはその構造の科学的な意味と経済的パフォーマンスとを最適に実行する組織においてリーダーシップを発揮していた。

 1880年にはシューホフはモスクワに戻って、バリ建設事務所の主任技師に昇進する。シューホフの発明や実績の多くは建築構造だけでなく、石油産業においてもかなり重要であった。彼はパイプラインや石油貯蔵タンクのほかにも、ボイラー、ポンピング・システム、残油燃焼ノズル、バージ(艀)(註16)に多大な発明と建設で貢献している。そして彼のはじめの仕事も、建築構造ではなく、石油産業であったことは彼のライフワークを考える上でもっとも重要なことであると思われる。彼は晩年のクラッキング技術に至るまで石油産業と常に深い繋がりを保っていた。そしてシューホフの考案した、石油や石油製品の輸送、保管、加工技術は未だに使われている。シューホフのバクーでの石油関連事業の貢献はさらに拡大した。

 

噴霧ノズルの開発

 パイプライン以外にも石油開発においてまだ問題があった。そのひとつが「もっとも効果的に石油残渣を燃やす方法」である。石油生産の副産物と考えられてきた石油残渣は木材の3倍、石炭の1.5倍の発熱量をもっていたため、専門家たちの興味を引いていたものの、それを完全で安全に燃焼させる方法は長い間、解決されてこなかった。(註1)

 1876年の学生時代からシューホフは液体の燃料の燃焼のためのノズルを設計・制作している。モスクワ工科大学では学生たちの実用的な制作物が検査を受けながら、次々と市場へと取引されており、これもそのひとつであった。そして、この開発はシューホフの生涯における様々な傑作のうちでも最初の発明品であった。この段階では完成には至らなかったものの、そこでの研究はシューホフをバクーへと呼び寄せるには十分であった。そして、シューホフはバクーにおいて遂にこれを完成させたわけである。これで狭いに隙間から高速で蒸気流を吹き出させて、霧状にすることで、空気が取り込まれて着火しやすくなり、無駄なく燃焼することができるようになった。L.S.レイベンソンは


「Laval ノズル」(註2)の開発される以前からシューホフは同様のものを制作していました。ノズルは数千個生産されており、ロシアだけでなく、海外でも広く使用されています。」

L.S.レイベンソン

と述べている。1879年にはマズトの焼却のためのノズルで特許を取得した(成分が分離して輸送に支障をきたす不純物の除去として)。

註1.それまで最良と考えられてきた解決策は1866年にA.I.スパコフスキーが開発した噴霧ノズルであったが、ノズルから蒸気流への着火に必要な放電は石油残渣に触れたときにはすでに減衰して伝わっていたために不具合も多かった。

註2.通説ではスウェーデンのグスタフ・デ・ラバルが最初に発明したことになっているが、シューホフは同様のものを10年近く前に制作していたことになる。これは「ロケットエンジンや一部のジェットエンジンの起源」になったとも呼ばれるもので、シューホフが石油残渣を効率的に燃焼させるために開発したものが20世紀には推進力として発展することになるのだろう。このノズルは量産されており、そのうちのひとつがスウェーデンの彼のもとに届いていたかどうかは定かではないが。


ポンピング・ロッド


ポンピング・ロッドとはポンプ・ジャックとも呼ばれる採掘装置である。油井に刺して水圧をかけて汲み出すための装置である。

 パイプラインと噴霧ノズルの研究と開発を終えてシューホフのバクーへの着任から2年後、1880年にモスクワに戻り、モスクワのバリ建設事務所の主任技術者に昇進した。しかし「地球の表面状を液体の水平輸送ネットワークでつなげる」という構想はエンジニアを魅了しただけでなく、政治・経済的にも重要な意味を持っていたために、シューホフの石油産業への関与はまだ続いていた。

 当時、石油は油田からポンプですくい出して、引き上げられてから送られていた。しかしこのシステムは蓋がされずに行われていたために、もっとも価値のある揮発性の石油成分が蒸発してなくなってしまう。この欠点を解決するために、深い井戸を掘り、なるべく多くの採掘量を確保しようとして多くの専門家が取り組んでおり、シューホフもまた例外ではなかった。

シューホフは紐入りのポンプの設計をし、1886年にポドルスクの油田で制作し、テストした。またもっとも重要な機械は、液体を運ぶための、高速の「ポンピング・ロッド」であった。ポンプは地下36メートルから油を引き上げた。

 1890年にシューホフは慣性ピストンポンプを開発した。それは弁と可塑性のロッドを有していた。ポンプはいたってシンプルで、直径が小さく、深いところで排水までされて、一気に油のみを引き上げることができた。他の専門家は「ポンピング・ロッド」の強度を高め、直径を大きくして組み上げる量を多くしようと努力してきた。しかしシューホフはバクーでの経験を踏まえて圧縮空気を使って井戸から油を引き上げるという考えを思いつき、空気圧縮ポンプを設計した。(註1)

註1.しかしこの発明はあまり人気が出ることはなかった。しかし同じ原理で、同じ技術的な構成をもった圧縮ガスポンプは現在では、油の抽出に使用される方法のひとつとして認められている。

 

 

 


 

ボイラーの開発

 1880年代も、石油産業技術へのシューホフの貢献は大きかった。バリは、イギリスとフランスからのボイラー大量に輸入して、彼のモスクワのボイラー工場で組み立てられた最初のボイラーを製造、完璧な技術的、経済的便宜、最終的には同様の問題への言及を考慮し、それぞれの仕事を導いた。そしてバクー時代のシューホフの石油加工産業のもっとも重要な仕事のひとつは、定期的に稼働する石油ボイラーであった。14から16時間の石油の精製ののち、ボイラーは冷却され、清掃される。再び燃料が供給されるのには12から13時間かかった。このサイクルにおいて、専門家たちは石油をなるべく継続的に精製できる新しいプロセスを模索していた。また石油精製過程で継続的に大量の電気を必要としていた。連続的で安定的な精製サイクルを得るという、この複雑な問題に対してはシューホフとボイラーエンジニアO.L.エリナイネが新しいバッテリーの開発を行うことで解決を図った。このバッテリーはバクーのノーベル兄弟の会社「ノーベル石油」に置かれた。「シューホフ=エリン・バッテリー」は周期的な精製方法と連続的な精製方法の繋ぎ役として、1930年まで運転された。電池は1800年ボルタによる電池の発明にはじまり、1868年、ルクランシェ(フランス)が乾電池の母体となるものを発明、ガスナー(ドイツ)乾電池を発明という流れで、特に19世紀後半に急速に発展していた。

 しかしこの電池式では石油の徹底した処理をしていなかったために、低容量で低消費電力の装置をつくることはできなかった。大容量の電池の運用には膨大なエネルギーが必要であり、それでは石油の価格も増すばかりか、品質も落ちかねなかった。そこでシューホフはF・A・インシクと一緒に働き、1886年に「石油などの連続蒸留のための新しい装置」を開発した。この装置の設計のおかげで、排気熱、蒸留物から発生する蒸気を再利用することができるようになった。これでエネルギー消費は最小限に抑えられるようになった。さらに軽量のベンジンを大量に精製することまでできた。

 1880年代後半にシューホフはバリの事務所で外国企業への蒸気ボイラー設置と建設に向かった。シューホフのボイラーにおいても技術的進歩とより大きな経済合理性のために絶え間ない努力が続いた。シューホフはパイプが碁盤の目のように配置された水平ボイラーを独自に開発した。シューホフはそれまで小さくてたくさんあった掃除用開口部を2箇所の大きなハッチを取り付けることで置き換え、清掃作業を簡単にし、整備不良も少なくした。また加熱領域の表面積を増やして、さらにパイプの長さを変更することで追加のドラムを並列に連結できるようにした。1896年、「シューホフ・ボイラー」は全ロシア博覧会で金賞、1900年のパリ万国博覧会でも金賞を受賞した。

 シューホフはそれ以降もボイラーを建設した。あらゆる石油原料の処理のために連続的に作動する配管システムの開発は、彼の石油精製業に論理的な結論を導いた。シューホフと機械工のA・ガブリロフと共同開発では、蒸留部の加熱面が直線状または螺旋状のパイプに置き換えられた。また蒸留は常温高温下だけでなく、高圧化で行われるようにもなった。この発明が本格的に導入されたのは革命後の1920年以降となる。地質および石油化学者のクルイロフ(A.P.Kryl ov)はシューホフの石油開発について「石油処理技術分野における創造的活動は戴冠に価する。」と述べている。


 

 

クラッキング・プロセス

 1929年から1934年にかけてシューホフは彼が設計した「ソビエト・クラッキング・プロセス」の発明と建設を実行した。このクラッキング・プロセスの開発は、石油分野におけるシューホフの仕事の頂点となるものであった。1932年には最初の高温高圧下での石油蒸留プロセスでのクラッキングを実現する。これは過去最高の質のガソリンを生産し、蒸留過程の改善により設備の簡素化までもたらした。また石油産業の工場のための国家計画研究所で計画を主導するべく、計画オフィスのチーフエンジニアとして76歳にして就任した。またこのころレニングラードの工業港に翼幅45mの航空機格納庫を設計している。(画像はない)また「ダゲスタンの炎」工場用の大型貯蔵施設とガスの圧力タンクを設計し、ロシア内戦中に沈んだ船舶を引き上げるためのアドバイザーを務めた。

 

 

 

タンカー

 1880年代、ロシア南部の鉄道ネットワークはまだ十分に開発されていなかった。バクーからの石油製品の輸送のために使えるロシアの天然の水路はカスピ海とヴォルガ川である。当初、石油製品は船のデッキや船内の石油樽(バレル)の中に入れて輸送された。シューホフは河川航路の特定の水流や浅瀬などの特殊な条件をクリアするために、万が一接触しても沈没を防ぐために隔壁が分厚い、バージと呼ばれる河川用の輸送船を作っている。
 1880年代初めにシューホフは貨物専用の多数の石油コンテナ船を建造した。これらのほとんどは木造であった。シューホフはすでに船上での最適な重量配分の可能性について研究し、もっとも経済的なタンカーの形状を導いて船舶そのものの設計をしようと思いついた。 

 シューホフはまず技術的な観点から石油製品ではなく、水を入れて実験し、鉄船での輸送がもっとも安上がりであることを証明した。シューホフは完全に一から船舶を建造することを目標に定め、従来の設計を学び、その欠点を調査し始めた。ヴォルガ川における最初の汽船会社「パ・ボルゲ」はすでに底床構造の船体デザインを有していた。また基本的な艀(バージ)の構造については他のエンジニア企業や海上を航行する船舶から借りてきた。しかしそれだけは、直線の竜骨、鋭いカーブ、「水を切る」ための船尾を持っており、海洋航行には適してはいたものの、河川には適していなかった。川の流れは流域全体にさまざまな渦と流速を持っていた。これにより、曳航船自体も制御が困難になり、しばしば重度の船体の旋回につながった。さらに砂場や砂利場を通過する際には従来の船舶では強い影響を受けた。傾斜の浅い川底に船底を何度もぶつけることで、船内の容器がずれたり倒れたりすることがあった。シューホフは古いデザインを分析し、そこに新しい施工技術を使ってそれを改良し、新しい河川航行用の貨物船を作った。

 最初の貨物船は先端部分がゆるやかなスプーンの形状で、船尾は持ち上げることにした。そうすることで簡単に水を先端から、船底をくぐってスムーズに後方に流れるようにして、舵はよりシンプルなものになった。この新しい設計の最大の成果はなによりも鋼鉄で建設されたことにより、木造船よりも大幅に船体を大型化させたことであった。建設された最初の10隻の船舶にはシューホフによって計算された最適な艀(バージ)の形状が採用された。容量656トンにも及ぶ艀(バージ)の寸法は全長72・2×全幅9・7×全高1.5メートルで、容量820トンのほうでは全長72.7×全幅8・5×全高2・7メートルおよび全長70.1×全幅12.2×全高2・4メートルである。前者にはより大きな全高を備えることにより、後者はより大きな幅を備えることのより容量を増加が達成されていた。1885年の図面の中には容量918トンの全長76.8×全幅10.4メートルの計画がみられる。1886年には一回り小さい寸法の全長70.3×全幅10.7メートル(容量935トン)と61.0×12.2×2.4メートル(容量984トン)が作られ、さらにより大型の89.9×9.1×3.4メートル(容量1017トン)が製造された。

 シューホフはさらなる運搬能力のために流線型の改良と操作性の向上を目指し、もっとも効率的な船体形状と容量を研究した。1894年に建造された艀(バージ)「メルクレフ兄弟」の断面図が残っているので、それをみると、ほぼ長方形で構成されていることがわかる。

 鉄板からなる2つの隔壁は船体を3つに分割し、各部がリベット留めされている。当時、このような河川用の巨大船は誰も見たことがなく、それを建築のように多くの鉄製の部品から作ることは信じられなかったし、誰も製造に関する知識を持ち合わせていなかった。シューホフはモスクワで製作された図面を通して、巨大なリベット留めの金具の構造を、時間や複雑な説明を抜きにして、シンプルに現地のエンジニアに教えた。シューホフはさらに造船を効率的に行うための手順や作業方法についても教え、その後の生産力の向上にも貢献した。

のちにこれら設計は科学アカデミーのラザロフとルイロフによって「河川航行用船舶でのシューホフの世界的な造船事業への大きな貢献である」と認められた。

 また1883年に公開された論文の主旨は、オイラーの方程式で知られる四次方程式を船舶の設計に応用したことと、さらに水上での重量負荷を加えたビームの浮遊理論の研究と、梁の長さや重りの場所によって曲げモーメントが依存しないという一定性の結論と河川用タンカーのための科学的設計方法の確立であった。これは船舶の大型化と大量生産を促した。これにより当初は(幅10m、積載部の高さ1.5~2m、積載容量800トン、全長約80メートル)であったのが、最終的には倍以上の(150~170メートル、積載重量約10000トン)ものバージの設計も行っている。

 19世紀後半では、ヴォルガ河とカスピ海を航行するすべての石油タンカーの少なくとも4分の3がシューホフによって計画されたものであった。また20世紀初頭にはロシア中の河川においてもシューホフ・システムの石油タンカーが建設・運用されるようになった。1901年から1902年のたった2年間でバリの事務所は17年間に建造された以上の、19隻、総容量49200トンものバージを構築した。これらの船のうちのいくつかは、1世紀後にも、まだ稼動している(例えば、キネシュマとバトゥミ)

1910年には一隻で容量10300トン、全長160メートルのタンカーも登場した。

シューホフはさらに浚渫船(川底の土砂をすくい出す船)、河川と海港の橋梁、貨物蒸気船、ポンツーン(主に軍で用いられる船で架ける橋、浮き橋とも。)

 ロシアにおける石油生産量は1900年に1030万トンに達し、全世界の生産量の51.2パーセントを占めるに至った。部品は、ヴォルガの都市ツァリツィン (現ボルゴグラード)とサラトフでの造船所で標準化された部品を正確に計画された操作で製造された。その1:1の設計図面は、モスクワで引かれた。

 またアレクサンドル・バリは造船業界でトップの市場ポジションを獲得した。ヴォルガ船に乗ることのブーム年で(1900年まで)シューホフによって構築されたロシアのタンクはしけ、ヴォルガに沿って、ほぼすべてのハブを通してオイルタンクの大半が運ばれた。

 

註1. p9[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)

 

註2.メンデレーエフはバクーを訪問した際、この莫大な輸送費を節約するためにパイプラインを建設して、石油処理工場へと圧縮して送油することの有用性と必要性を強く訴えていた。P116[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)

 

註3.「ノーベル石油」は後にバクーの石油利権で莫大な財を成す。

 

註4.ドレークによるアメリカ最初の石油採掘がはじまったのは1859年である。参照「石油の歴史 ロックフェラーから湾岸戦争後の世界まで」エティエンヌ・ダルモンとジャンカリエ、2006年、白水社

 註5.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)116ページ

 註6.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)116ページ

 

註7.マズトとは通常の石油よりも重くて、低品質の燃料で、古くはロシアや極東の国々でも家を温めるためにも使っていた。マズトはバクーを含むロシア地域や極東において顕著にみられる原油の種類でもある。

 

註8.アメリカではパイプ輸送される重い石油の粘度を低下させるために水が加えられていた。しかしマズトの粘性は高く、水を加えればそれだけ精製過程で余計な工程を挟むことになるし、追加した水が送油中に凍りつくおそれもあった。そこでシューホフは予熱パイプラインがロシアには必須であると考えた。[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)116ページ

 

註9.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)116ページ

 

註10.科学者L.S.レイベンツォンも「シューホフは国際的な石油圧縮輸送機械の創始者である。」と述べている。P117[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)

 

註11.トンネル工事の方法のひとつでシールドマシンを使わないで、地面を掘り返してから菅や道路などを埋設してしまうこと。要するに取り出した油は外気にさらされるような露天掘りのプールに溜められていた。

 

註12.ガス灯用のガスタンクは中央ヨーロッパに少し前からあった

 

註13.ガソリンの利用価値は1883年のガソリンエンジンの発明を待つこととなる

註14.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)120ページ

 

(註15)[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)9ページ

 

註16.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)128~133ページ

 

 

 

 

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