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(まとめ)シューホフ 1-4「ニジニ・ノヴゴロド全ロシア産業芸術博覧会」

4 ニジニ・ノヴゴロド全ロシア産業芸術博覧会(1896年)(註1)


導入

 1880年代までの石油事業への貢献を経て、1890年代にシューホフは多くの「建築」と関わりを持つようになる。シューホフは1890年に、グリッドシェルの屋根をもったポンプ場を建設している。1895年、シューホフは格子屋根についてのふたつの特許を取得している(註2)。
 それらの基本的なコンセプトは共通しており、同様の形を持った部材をリベットで組み合わせることにより、曲面鉄骨のメッシュとダイヤモンド型メッシュを使用したネットワークから強力な構造を得るというものである。これらのネットワークは吊り下げられることに強く、引っ張り応力もあり、その表面は極めて単純な二次曲線(放物線)で形成することができる。幅広の軽量格子屋根や格子シェルを製造するというコンセプトも含まれていた。
 このメッシュ屋根の発展に続き、新しい形式として張力構造が発明された。バリの工場で、張力構造においては屋根構造のぶら下がり部分だけを独立でつくった実験を行った。シューホフは、ここで張力構造での格子屋根を初めて実現した(註3)。そして、単一のロッドの部材から形成されるグリッドシェルという曲面構造はすでに高度に発達していた鉄骨構造の分野にさらなる進歩をもたらした。
 ニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会ではデモンストレーション(註4)として前例のない屋根構造を公開した。バリは合計8つの展示ホールを建設した。そのうちのいくつかはかなりの大きさであり、出展者にそれを賃貸した。またこれまで知られていない実験的なものであったために、バリへの財政的リスクは小さくはなかった。シューホフが製作した8つのうち、4つは木製の屋根が載せられていた。

 ここではニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会の特徴的な5つの屋根形状と給水塔を見て行きたい。


「建設と技術館」

 1つの中央のロトンダと両翼の2つの長方形平面の吊り屋根の計3つ建屋からなるパビリオンで、同時代の建築技術に関する展示が行われた。ロトンダの二重の円形平面を有する屋根のある建屋では張力ケーブルが時計回りと反時計回りにやや放射しつつ展開されて、負荷を中央のふたつの柱に集中させている。
 矩形(長方形)吊り屋根の建屋の湾曲したネットは直線のビームと直角に立つふたつの柱をとの間に引き伸ばされる。ブレースが付いたエッジは斜めに地面表面に固定されている(註5)。



「工場と手工業のための拡張館」

 オーバル平面の吊り屋根建屋である。屋根(直径68.30メートル、高さ15メートル)はふたつの吊り屋根で構成されている。16本の支柱に640本のリベットを打ち込んで構成されており、それぞれの内輪の半径は25メートルである。吊り屋根構造のほうは布状の金属製ラティス格子を長方形断面の双方から垂らすようにして壁面へと導かれている。この考え方はすでにJ.デュプイトにも見られるものであった。屋根の内側の2本の支柱の高さはそれぞれ15メートルで、そこを逆さランガーアーチの桁で繋いでいる。支柱の先は末広がりとなっており、この構造において最大の引っ張り力が関わるこの点を補強するだけでなく、ライナー・グラエフェはこの柱(幅2メートル)の中心に螺旋階段を通して屋上へと登れる仕組みがあったのではと考察している。中央からオーバル(楕円)上に周囲を回り、壁面へと向かってラティスのネットが流れている。この角丸長方形平面の広いほうの幅は70メートルにおよび、短いほうの幅は51メートルである(註6)。



「機械館のための拡張館」

 3つの並行するシンプルなアーチ屋根よるコンコースからなる本展覧会メイン・パビリオンである機械館のための拡張施設である。拡張館とはいえ、その規模は大きく、コンコースの長さは85メートル、内側コンコースの幅は23.5メートル、両側は15メートルで、これにより、4550平方メートルの領域を覆っていた。またこれらのコンコースのアーチは水平のタイと斜めに走るタイによって補強されている。




「工場と工業製品館」

 これもまた3つのコンコースからなるが、「機械館のための拡張館」と比べてこちらのほうが2倍以上長く、面積も2倍以上である。全長は222メートルで内側のコンコースの幅が28メートル、外側が15メートルである。この中央の3連コンコースから真横にさらに3連のコンコースが両翼にわたって伸びている。(内側の幅が15メートル、外側が幅13メートル)これらの総面積は10009平方メートルにもなる(註7)。


「国立鉄道館」

 斜めグリッドをもつ(ラティス)アーチ・ヴォールト屋根をもった建屋である。かまぼこ型の空間では「機関車や鉄道車両、鉄道周辺設備」についての展示が行われた。長さ58メートル、幅32メートル(註8)。


「機械館隣接のボイラー展示室」

 機械館に隣接したより肌理の細かいメッシュの屋根をもった建屋である。長さ15メートル、幅約34メートル。


 これらの構造の利点は、通常の屋根構造と比較して大幅な軽量化を果たし、材料を節約し、製造と組み立ての本質的な単純化を促したことが大きい。4つのホールを使って、延べ総面積27070平方メートル(吊り屋根部分が10160平方メートル、グリッド屋根が16910平方メートル)を覆うことができた。それらの曲面はそれ自体を曲げることによって得られるものではなく、それぞれの部品をシンプルに組み立て、構成したときにはじめて現れる。(註9)あるいはワイヤのようなものであれば、組み立てたのちにできあがった表面全体を曲げることによってはじめて曲面が得られる。それらの構造はたいていリベットで止められる(註10)。ほぼすべてのホールの建築の設計にはV.コソフが関わっており、内部空間や構造についてはシューホフと綿密な協議が行われ、内外のホールデザインの装飾をおこなった。多くの建築にはメッシュ屋根の間に菱形や六角形の大胆な「窓」が設けられており、現代の新しさを表現したようだ。また六角形の窓はシューホフのラティスの格子にもぴったりと合いながら、構造を目立たせていた。ちなみに、この六角形の窓はメーリニコフの自邸にも取り入れられている。(因果関係は不明)

「給水塔(シューホフ・タワー)」

 前述のパビリオンに追加して、シューホフは新しいデザインの給水塔を展示場に提供した。その給水塔は高さ25.60メートルのシャフトの上に114000リットルの水タンクを持ち、直線状の傾斜したL字形鋼で空間的に湾曲したラティス面を作っていた。
 その結果として軽くて、しかも堅い塔の構造が得られ、非常に単純かつエレガントな外観をも得ることができ、博覧会のモニュメントとしての機能を兼ねていた。展示時、頂上のタンクには塔の内部の螺旋階段を経由して到達できる展望台があった。この最初の双曲面の塔は、シューホフの最も美しい建物の1つとして有名である。
 給水塔は展示後にネサエフ・マルセフ男爵に売却され、庭を灌漑するためにリペツク近郊のポリビノ村の土地にこのタワーは置かれた。現在も非常に悪い状態ではあるが、タワーはまだ立っている。
 シューホフは1896年1月にはこの塔についての特許を取得している。交差した鉄骨からなる双曲面ラティス・タワーの表現形式はロシア全土で注目を集めただけでなく、国外からの注目も強く、工学雑誌に取り上げられた。シューホフのラティスの斜めに交差する鉄骨が生み出す「モアレ効果」のような現象は光と影の見事な影を作り出した。博覧会のガイドブックにも、シューホフによって建てられた塔が展覧会の中心的なシンボルであったことを示している。バリが商業的に最も成功した要因は、このニジニ・ノヴゴロドに双曲面の形で示された塔の建設であった。シューホフは、展覧会の開始直前にこの発明について既に特許を取得していた。原則として、それは屋根に使用されているネットワーク構造についてものであったが、双曲面の回転図形は全く新しいものであった(註12)(註13)。



「機械館」

 メインパヴィリオンともいうべき「機械館」はアレクサンドル・バリの工場だけでなく、バリのパートナーである「ペテルブルク金属工場」によって建設された。建築設計はA.N.ポメランツェフであり、シューホフの「機械館のための拡張館」と同様に斜めに走るタイを通して巨大な半円アーチのコンコースを支えていると同時に、トラスアーチが変形することを防いでいる。(長さ180メートル、幅36メートル)計画や建設時に使用可能な時間は非常に短期間で、しかも1895年から1896年における雪の降る冬の屋根の屋根構造の安定性に当局を疑い見直しも求められた。しかしシューホフの構造の安定性は親友のP.K.フジャコフによって雪による荷重と風圧なども考慮して計算され、優れた構造であることが確認されている。


展覧会の反応

 展覧会の反応は様々であった。4ヶ国語に翻訳された展示ガイドブックもまたこれらの建築の「国際展示会におけるいわゆる産業宮殿」と呼び、賞賛していた(註14)。これらは直方体や組積のドームといったそれまでの建築とは全く異なるオリジナリティのある解を提示することに成功した。これらはロシア機械時代の幕開けを知らせるのに十分すぎるものであったのと同時に、またシューホフのデザインはアレクサンドル・バリの工場の存在感を確たるものとした。展示会の建物のほとんどは、最初からの計画どおりに後で販売された。この展覧会は大成功した。シューホフはこれを機により多くの鉄道事業や給水塔の依頼を受けるようになり、彼はますますモスクワの建築家の建設プロジェクトに呼ばれるようになった。代表的な建築であるモスクワ芸術座のシューホフによる設計においても、この屋根構造を導入しようとしている。



ヴィクサの製鉄所ホール

 シューホフのグリッド屋根で、目録はないものの1904年までに30件の受注があった。そうした受注のうちのひとつに翌年の1897年のヴィクサの製鉄所へのシェル屋根の取り付けがある。これはラティスによるシェル構造で、食パンを横にたくさん並べたようなデザインの金属シートの屋根で覆われている。これは現在も屋根の金属シートは一部崩落してはいるものの構造としては健全な状態で残っている。この近代的なグリッドシェルの前身(註15)となるようなこの初期型は、現在もヴィクサの地方都市に幸い生き残っている。サマラ(ソ連時代はクイビシェフ)の菅工場(1901年)は実際に建てられたかどうかは不明だが、設計図が残されている。その形状は単純な球形シェル構造であるのだが、外側が放射状のグリッドのドームで、内側はラティスとなっていて、おそらくは軽量化のためであろうが、遊び心を感じるものとなっている(註16)。




註1. ロシア語名称はВсероссийской промышленной и художественной выставке в Нижнем Новгороде (1896)であり、正式には「ニジニ・ノヴゴロド全ロシア産業と芸術博覧会」である。

註2. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)28ページ

註3. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)29ページ

註4. 19世紀の鉄構造のシューホフの基礎的な研究と発明について、クリスチャン・シャドリックは言っている。「シューホフの構造は19世紀の独立した鉄構造物においてすでに完成しており、20世紀に入ってもなお表現され、さらに重要な進歩をもたらした。そして、この実験建築はその時空間的なフレームワークとして基本的でもっとも始めの仕事のひとつである。」

註5. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)30〜35ページ

註6. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)37〜39ページ

註7. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)39ページ

註8. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)39ページ

(註9)ドーム型のネット屋根や格子シェルでは、剛性の高いエッジバンド(耐久性の高い美的なエッジを作成するもの。材料の露出した側面を覆うために使用され、また耐久性を高め、見栄えを良くして商品価値を高める。)の鉄材またはアングルアインアン(L(字)形鋼)で構成されている。

註10. パビリオンの生産と組み立ては、シューホフだけでなく、同じくバリの会社の技術者F.G.ファルプシュテインによって細心の注意を払いながら調整された。さらに経験豊富な労働者たちと絶えず繰り返される手順を経ながら組み立てられた。

註11. 多くの建設中の写真に、覆いがされていないネット屋根の複雑で美しく曲がったメッシュ表面を確認することができる。

註12. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)78ページ

註13. 約40年前、ロシアのエンジニアで科学者のジュラフスキー (1821-1891)はペテルブルクの高さ56.4メートルのピーター・ポール教会の尖塔の建設に関する問題を解いた。この建設において双曲面の構造が使われたらしい。15世紀から17世紀までのロシア建築の系譜からシューホフはその塔の先端部のジグザグ要素の頻繁な錬鉄製の窓枠に気がついたにちがいない。またネット状の屋根構造に関しても、最初のひとつの塔からなるサーカステント(直径27.5メートル)は1830年代に米国で現れているし、それはすぐにヨーロッパにおいても普及していた。1865年にはドイツのサーカス(Cortti-Althoff)が大成功を収めている。さらに次の数十年間においては、『Baum und Bailey』のような人気サーカスもあり、巨大な細長い円形のテントを作っていた。これらのサーカステントへの関心はシューホフのアメリカ趣味を刺激したかもしれない。

註14. 1895年5月1日には未だ多くが下塗り状態であり、同年8月1日にはふたつの円形大広間ができあがったが、最終的には塗装されないまま引き渡されたものの、評価は高かった。

註15. ちなみに似たようなデザインにチェコのエンジニア、フリードリヒ・シャーチ (1791-1868)によるネット屋根の発明(建設は1824年、特許1826年)があり、それは石造りの外壁から平行な鎖を吊り下げていた。また「ネットまたはノードシステム」と呼ばれる屋根構造の基本理念はゲオルグ・モラーズ (1784-1852)の「建設理論」のなかでも触れられている。

註16. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990. 47ページ、50ページ(ドイツ語)




参考

https://www.amazon.de/Kunst-sparsamen-Konstruktion-Vladimir-Suchov/dp/3421029849

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