(まとめ)シューホフ 2-1「帝政期の建築とソ連建築家との関係」
2-1 帝政期の建築とソ連建築家との関係
技術者と建築家はその仕事において密接な関係をもちます。しかしながら、その関係を探り出すことは容易ではありません。なぜなら、建築家の名前は誰にでも、知られていますが、エンジニアに関してはほとんど知られていないからです。しかし、エンジニアの関与がなければ、モスクワでの主要な建設のほとんどなかったと言っても過言ではありません。そして、そのほとんどにシューホフの事業が関与していました。初期の給水ネットワーク、クレストフスキー給水塔、市内を走る路面電車や、最初の中央発電所、ガスタンクとガスの都市ネットワーク、トラムの車庫、ボイラーと工場、製鉄所など19世紀後半から20世紀初頭のモスクワの繁栄にはシューホフが深く関わっていました。
19世紀末にかけてのロシアの建築業界において技術の発展と建築材料の産業生産の移行と新しい金属を使用した構造が数多く出現しました。しかしながら、それらはアカデミーの権威を損なうものとしてアカデミー側にとってはエンジニアの活動に対するはっきりとした反感がありました。芸術的な高等教育を受けた建築家の仕事は、宮殿、記念碑、劇場、ヴィラの計画がほとんどでありました。しかし、19世紀に現れた多種多様なテクノロジーの作り出した新しい生活世界(註1)においては鉄道、橋梁、工場、商店、道路の建設が重要視されました。そうしたなかで1896年にニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会でのシューホフの仕事が建築界に与えた影響はやはり大きく、以降、シューホフの構造デザインが革命前と革命後の建築に入り込んでゆきます。この章ではシューホフの帝政およびソ連の建築家との関係を追ってゆきます。
グム百貨店
まずモスクワでもっとも有名な建築のひとつで、シューホフのニジニ・ノヴゴロドでの設計以降、大規模なものの最初であるグム百貨店があります。グム百貨店(建設期間は1889年〜1893年)は建築家A.N.ポメランシェフとシューホフ、そしてもうひとりの軽量コンクリートのエンジニアのA.ロライト(註2)によるものでした。外壁の花崗岩とタルーサ(註3)から運ばれてきた大理石と砂岩の作り出す「石の空間」と鉄骨と透明ガラス屋根の「鉄の空間」との鋭いコントラストの調和は、過去と現在(あるいは未来)の融合を達成してしているかのようです(註4)。グム百貨店は建築家が「裸の」金属構造との美的な関係を築きはじめた時代の一例であると言えるでしょう。そしてこの傾向は同時に世界的な潮流でもありました。
店舗が占める総面積は約25,200平方メートルであり、建物内に1,200の店舗が収容されています。モニエに師事した鉄筋コンクリート構造がロライトによって用いられました。屋根の鉄骨構造は800トン以上の重さで、さらに各通路をカバーするために、2万枚のガラスが必要でした。1階の3つの縦横に走る通路は、それぞれ3つの地下通路とも対応しています。これらの巨大な地下には、暖房のための電源とボイラー室があります。シューホフはこの建設を期にモスクワでの建築を手掛けてゆきました。
モスクワ芸術座(アンビルト)
1901年にシューホフはモスクワ芸術座の設計をしていました。初期の下書きでは直径が60メートル、収容人数が3,000人となっており、ボリショイ劇場が約2,000人、ウィーン国立歌劇場も2,200人程度なのでこれはかなり大きい。さらに、シューホフが自らこれだけ大規模な計画を立てることは非常に珍しいともいえます(註5)。屋根構造はいくつかドローイングが残されていますが、円錐台であり、一部、さらに上部構造があるものがあります。同様のロトンダと呼ばれる円形空間のなかでは最大規模(直径40メートル)ではあるが、この計画は結局、実現されることはなかった(註6)。
シューホフと仕事をしていた代表的な建築家にはV.コソフ(ニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会)、A.ポメランセフ(グム百貨店)、V.ヴァルコット、A.エリクソン、S.ソロベフ、R.クライン、I.レルベルク、A.シチューセフ(註7)がいる。しかし、彼らは経済的および機能的な意味での審美的言及は一切なく、かれら建築家の主な関心は、剥き出しの構造を隠したり、飾ったりすることにあった。それでも当時、ヨーロッパ最大の百貨店であったグム百貨店の設計、建設および設備は最高の工学的見地と優れた技術を要求していました。
ホテル「メトロポール」
他の多くの国と同様に19世紀末のロシアの建築家たちは折衷主義デザインによって特徴付けられていました。ロシアもまた様々な「歴史的」な様式を取り入れて、「国家」の様式を見つけることに勤しんでいました。これが20世紀になると、ロシア建築の状況はさらに複雑になってゆきました。まず西側から借りてきたアール・ヌーボーは非常にファッショナブルになっていました。当時の若い芸術家は文体の寄せ集めの古風な折衷主義から、解放と熱意をもって「新しいスタイル」は「ロシア・スタイル」であると受け取りました。1902年12月から1903年1月までモスクワでは「新しいスタイル」建築・美術展が開催され、ほぼ同時期には、ペテルブルクで「自由の芸術」展が開催されました。そこでは芸術においては美的理想の変化とそれまでの様式の急速な崩壊が起こってゆきました。そして、アールヌーボーはロシアの建築に新たな方向性をもたらした。
アールヌーボーを示す最初の建物にモスクワのホテル「メトロポール」(建設1898年〜1903年)があります。これは建築家V.F.ヴァルコットによって設計・建設されました。モスクワの眺望を提供するメインホールの上のガラスと鉄の屋根の建設の基礎はシューホフの仕事でした。また、このホテルの正面にはM.A.ブルーベリとA.Ja.ゴロビンによる華やかなレリーフが施された。グム百貨店よりもメトロポールのほうが有機的でアールヌーボーなデザインであった。この建築はモスクワにおけるアールヌーボーの拠点であり、鉄道資産家のマモントフの意向によって計画された。
その他のアール・ヌーボー建築
建築家S.M.クラギンとV.V.フライデンベルクによるペトロフスキー・パサージュ
建築家A.E.エリクソンによるA.E.スイチンの出版社「ルースカエ・スローバ」(1905〜1907建設)
建築家R.I.クラインによる「ミュール アンド ミューレリス」(現在、ツム百貨店)
アゾフ・ドン銀行ビル
ソルダテンコフ銀行の商用ホール
建築家O.R.ムンク(D.I.ノビコフ
L.A.ヴェスニンとA.V.ヴェスニン共同建築)によるミャンスニスカヤ通りの中央郵便局(1912年)などにおいてシューホフは技師として協力しました。
これらはすべてアールヌーボー様式です。
モスクワの中央郵便局では、1902年に、シューホフは交換台に天窓とガラス窓を取り付けました。彼は、シームレス・パイプからなる40台のスペース・フレームに似た構造(註8)を考案しました。しかし、シューホフはまだ四面体からなるシステム(いわゆるスペース・フレーム)を使用してはいませんでした。
シューホフはさまざまな形態のドアや窓、棚およびバルコニーを形成する可能性は鉄構造から生まれたということをよく理解していました。金属構造の可能性についてシューホフは「金属構造だけが建築家にさまざまな方法で流れるような曲線的な形態を使用する機会を与えてくれる。これはまだ完全には理解されていない。…金属構造はわずかに片持ちの突起(キャンティレバー)を可能にする…。」(カッコ内は筆者の付け足し)とも述べています。
モスクワのキエフ駅
さらに広い空間を囲い込むという人類の夢は鉄・鋼・鉄筋コンクリートの技術の向上により、19世紀、20世紀を通して大きく発展してきました。そして、その最大のものはロンドンのセント・パンクラス駅やフランクフルト・アム・マインのフランクフルト駅に見られるような鉄骨のアーチの巨大ヴォールトです。シューホフが革命前に実行した最後の主要な仕事は、モスクワのキエフ(旧ブリャンスカ)駅(1912年〜1917年、スパン48メートル、高さ30メートル、長さ230メートル)のアーチ・ヴォールト(実際プラットホームを覆う巨大な屋根)でした。駅全体のデザインは技師・建築家I.I.レルベルク(註9)と同じく建築家のV.K.オルタルジェフスキーでした。シューホフの協力は、3ヒンジアーチの軽量設計であり、これはかなり効率的な組立工程とともに提示されました。
まず、アーチの半分部分を地上で組み上げてから、2つの簡単な木製の塔の下に並べられ、塔に取り付けられた滑車によってひとつずつ引っ張られて、上で組み立てられるというものでありました。シューホフのキエフ駅の成功を受けて1911年から1940年におよぶ同じくモスクワのカザン駅の3連アーチ・ヴォールト屋根が計画されました。プラットホームは幅55メートルの正面で3ヒンジ・トラス・アーチによって覆われていました(最高点は24メートル)。これはA.F.ロライトによる大規模な鉄トラスとコンクリートの巨大ポータル(入口)によって横方向の構造の補強によって成立しています。
さらにシューホフは建築家M.K.ゲッペナーの「コミサロフ技術センター」(1891年〜1892年)、建築家N.S.クルジャコフのモスクワの「絵画・彫刻・建築のための教育学校」の再建と「絵画ギャラリー」の設計、建築家S.U.ソロヴェフの「女性のための高等教育学校」(1910年〜1913年)に構造技師として関与しました。シューホフは広々とした教室や照明、ゆったりとした階段を備えたアートギャラリーを建設し、建築内部に金属構造とガラスを嵌めました。さらに当時、モスクワの精神的な交流で魅力的場所でもあったモスクワ芸術劇場と大学天文台の舞台建築と屋根の建設に参加していた。1922年のシャボロフカのラジオ塔の建設以降はV.E.タトリン、I.E.レオニドフ、K.S.メーリニコフとヴェスニン兄弟など多くのソ連の芸術や建築家へ影響を与えることとなります。
註1. 日常的に存在している世界。フッサールによればガリレオ以降の近代科学の語彙が「理念の衣」(数学や幾何学)として世界を覆ってしまうことによって本来の認識を妨げているものとしている。ここでは以上のフッサールの問題意識を前提とし、より高度化するだけでなく、われわれの認識をも変容していったことを念頭においている。
註2. A.ロライトはモニエに直接師事し、軽量コンクリートのロシアにおけるパイオニアのひとりであり、初期のコンクリート構造においても、世界的に引けをとらない実験的な作品を多く残している。グム百貨店においても、当時としてはあそこまでの規模でコンクリートが多用された例は世界的にも珍しい。またアヴァンギャルドとの関わりもシューホフ以上に深かったことがわかっており、今後、研究したい。
註3. タルーサはモスクワ南部の都市、オカ川に面している。
註4. グム百貨店の屋根構造とニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会(1896年)の「大機械館」やシューホフの鉄製アーチ・ヴォールトの斜めのタイの通し方はよく似ている。グム百貨店の通路上のガラス屋根を建設するべくシューホフは1890年に対角線張力タイ(建築構造における「タイ」はアーチ構造内部に張られる引っ張り材)非常に軽量なアーチ構造をする必要にせまられた。そしてアーチ・タイの補助効果はトラス構造とアーチ構造の折衷という建設的なアイデアを導入した。このことはグム百貨店の建設が始まったのが博覧会の3年後の1889年であることからも納得がいく。
註5. 同様の巨大建築計画はシャボロフカのラジオ塔の初期の案(高さ350メートル、実行されていない)くらいしかない。
註6. モスクワ芸術座は建築家F.O.シェフテルによって1902年に建てられた。なお、シューホフは1907年に同舞台の屋根構造で設計を行なっている。
註7. シチューセフは1913年から1926年からカザン駅のシューホフのプラットフォームホールで建築デザインを行っていた。しかしこれは計画段階で打ち切られ、未完プロジェクトとして歴史に残ることとなった。最終的には後述のレルベルクが担当することとなる。
註8. スペースフレーム、または立体トラスにコンラッド・ワックスマンとマックス・メンガリングハウセンによって開発されたものの前身とみなすことができる平らなスペースフレーム。その初期型はグラハム・ベルの開発にも見られる。
註9. 軍事技師学校卒業の軍事技師であったが、建築も多く手がけており、初期の合理的仕事を見ることができる。また後のソ連建築家たちとも協働したり、論争を生んだりした。
参考『フッサール「現象学の理念」』竹田青嗣、講談社選書メチエ、2012年
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