(小説)solec 4-1「廃墟」
ソレクからアンガローニ202で7日、終着駅ルーアンに流れるセーヌ川の上流約100kmに位置する都市「パリ」。かつてはヨーロッパ最大の都市であったこともあり、あらゆる文化が行き交っていた。イタリアのフィレンツェを継ぐ芸術の都としての栄光のみならず、市民革命の原点であり、世界を変える中心地となった。その中でも、17891年の革命と1870–1871年のパリコミューンは、その後のソレクの登場と社会主義連合の発足に果たした役割は計り知れない。しかしながら、新型爆弾の使用と化学兵器、ドローンによる無差別爆撃によって、この街は度重なる戦火の内にあり、いまだに第2段階のままである。街には絶えず銃声や爆音が響き渡る。
驚くべきことに、ルーブル美術館からソレク国立美術館に移転された数多くの芸術作品の中に、この結末を予言したような作品がある。その名も「廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図」。1796年に著名な庭園技師であり、画家のユベール・ロベールによって描かれた廃墟画である。唯一現実のグランド・ギャラリーと異なる点は、この作品が長い時の作用を受けて廃墟となったことを示唆しているのに対して、現実のルーヴルは度重なる爆撃と業火に曝された。そして、野戦病院として使用されたこのギャラリーの夥しい数の人命とともに瓦解し、廃墟となったことである。
化学兵器による汚染がある程度落ち着いた場所でも今も、この地に暮らすものはかつての10分の1にも満たない。誰も訪れない見捨てられた街「パリ」。
しかし、今でもこの街はこの世界の現実を語り続けている。
私はソレクに生まれて、日本にルーツを持つ両親のもとで幸せに育った。20歳という節目の年を6年も越えて、振り返った人生、ソレクでの体験。母が私を大切に育ててくれたことはよくわかっているつもり。これも遅れた反抗期なのかもしれない。ひょっとしたら、父の遺伝なのかもしれない。いや、なんでも父と結びつけようとするのは止そう。これも自分の決めた人生なのだから。ソレクにいたって、私は・・・そう、空虚にまみれるだけなのだから。-空虚-。
私はまだ若い。ソレクにいたままじゃ、大人になりすぎてしまう。あの正確に約束された人生、それは幸福かもしれない。しかし私の中の何かが、そこに疑問を感じていた。私はその疑問にできるだけ正直に向き合うとするうちに、その疑問を拡大させた。
オレンブルクや理化学研究所での事件はその答えなのだ。もうソレクにはいられなくなった。だから、パリ(ここ)にいる。後悔はない。
理化学研究所での事件後、私はいわゆるPTSDを煩い、ソレクの病院にいた。自責と反芻に押しつぶされる毎日で、心はまるでこのパリの廃墟のようだった(今でもこの街と私を重ねてしまうことがよくある)。病院では「ソレクの保護」を強く感じた。あの事件以降、ソレクを外側から見つめるようになっていた。自分が日本の血を引いているジレンマに息苦しさも覚えていた。毎週食い入るように読みあさっていた科学雑誌。
私がいなくても新発見や新開発のペースは落ちることはない。
優秀な科学者がひとり消えたところで、ソレクは前進し続ける。
室長も忙しいようで、あれ以降、ずっと会っていない。もう私が戻れる場所なんて、もう残ってない。どこにもない。何の生き甲斐もない毎日。その事実もまた、私を追い込んでいった。
消えてしまいたい。
そんな私を彼女は救ってくれた。
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