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(まとめ)シューホフ 1-1「19世紀末のバウマン記念モスクワ技術大学」

1.学生時代

「ルネサンスの3次元空間はユークリッド幾何学の空間である。しかし1830年頃には、3次元以上の次元を用いて、ユークリッドの幾何学とはまったく異なった新形式の幾何学が創られた。その幾何学は発展しつづけて、遂に単なる想像のみでは、理解できないような数字や次元を数学者が扱うという段階にまで到達した。」(註1)       ジークフリート・ギーディオン

 

 シューホフは1853年にグラヴォロン(ベルゴロド州)の小さな町で生まれた。彼の父親はペテルブルク国立銀行(註2)の支店長であった。子供のころのシューホフは発明好きな子供で、まだ学校に通っていない幼少期に、家の周りに噴水と水車を作って家族を驚かせた。(註3)。

 その後、シューホフは9歳でペテルブルクへ引っ越して、ギムナジウムに入学した。ギムナジウムの成績も優秀であり、特に数学と物理学に秀でていた。5年生のときの数学の講師は数学と物理学に秀でたコンスタンチン・クラエビッチで、彼はシューホフの数学的才能に気がつき、それを激励している(註4)。

 シューホフはギムナジウムを卒業したのちの1871年、帝国モスクワ高等技術学校(現在の「バウマン記念モスクワ技術大学」)(註5)で学んだ。帝国モスクワ高等技術学校は、元はモスクワ養育院の生徒のための技術教育機関として出発したが、300人の定員のうち、50人は授業料を支払う町人・商人の子弟も含まれていた。すなわち、特権的貴族だけでなく、当時台頭していた階級である新興貴族や商人の子供たちも勉強することを可能にしていた。1868年に高等教育機関に昇格されて以降はこの傾向は一層、強くなり、高度なエンジニアを養成するためのカリキュラムが設定された。そこでは高度なレベルの教授陣を備えた教育プログラムが施され、特に数学と力学に重点が置かれていた。

 さらにこの大学の大きな特徴として、実地研修があった。実地研修はさまざまな工房での徹底した技術訓練を含む、理論と実践の密接な結びつきを深めると同時に様々な事業を管理している特定の技師のもとで、1対1で現場の事業の進め方を学ぶものであり、学生と親方的エンジニアとの間の世代を超えた人間関係の形成にも、一役買っていた(註6)。学生は木材や金属加工に徹底的に動員された。これにより知識だけでなく、スキルだけでもない、専門家としての「メンタリティの育成」を促進した。この出身校に基づく人的結合はシューホフののちの人生においても重要な役割を持つことになる。また当時の工科系高等専門学校の雰囲気は文部省の管轄圏にあった他の文系大学と異なり、学生組織や自治活動に相対的に寛容であり、学生たちは図書室、学生食堂、購買、学生互助組織を運営していた。マルクス主義文献もそうした図書館には備えられており、全体的には左派寄りであったことが知られている(註7)。

 彼の才能は数学において際立っており、シューホフの学習した年(1871-1876)には、大学も重点を数学の授業に置いていた。著名な数学者で教育者レトニコフ(1837-1888)は、シューホフの数学的探求をサポートした。またシューホフは数学者パフヌティ・チェビシェフ(1821-1894)のもとで助手の地位を得ていた。チェビシェフは「チェビシェフの多項式」で有名であり、帝国ロシア科学アカデミーの会員でもあった。チェビシェフはシューホフを助手にするだけでなく、自身の後継者にする気でもいた(註8)。当時のモスクワ高等技術学校には解析力学の教室で講師として、「ロシア航空機の父」と名高い学者ジューコフスキー(1847-1921)がいた。ジューコフスキーは1872年(シューホフ、学部2年生)のときに授業で教えていた(註9)。1872年、技術専門家オルロフ(1843-1892)は、応用力学学部の教授に任命された。モスクワ技術高等学校での彼の教育研究は、高く評価されている。また同級生で親しい間柄に、P.K.フジャコフ(1858-1935)がいた(註10)。フジャコフは教師として仕事をしてから、モスクワ高等技術学校教授に任命された。鉄骨構造におけるシューホフの新しいアプローチについて、フジャコフは評価しており、シューホフの構造の計算をして、その強度の信頼性を確かめてもいる。

 ここでの数学的教養と研究の蓄積が斬新な構造デザインへの源泉となったことは疑いようがない。さらに彼は生涯にわたり、この大学につながりを保っていた。工科大学の卒業者たちは卒業後の結びつきも深く、よくコミュニケーションを取っていた。そのような連絡先や情報交換の良い機会をモスクワ工科大学の「ポリテクニック・ソサエティ」が提供していた。

 シューホフも学校の「ポリテクニック・ソサエティ」(大学の卒業者たちの集会)に所属し、1903年にシューホフは名誉会員に任命されている。またその際に彼の著書の一部が発表され、そのときシューホフは彼の本の販売利益の1600ルーブルから1167ルーブルもの多額の寄付を協会に対して行っている(註11)。1876年に、シューホフはポリテクニックでの研究のために金メダルを授与され "機械技術者"との称号を得て卒業した(註12)。1778年にシューホフは企業へ就職するのだが、この選択は当時の学生の大半が国家機関や自治体機関の職員として働いていたのとは異例である(註13)。

 1890年代後半シューホフは理工学会のエンジニアリング機械部門の最も活動的なメンバーの一人だったので、科学と実践の関連分野から、技術者、建設業者らの多くの著名な科学者・技術者から注目を集めた。若干20代で、シューホフは元の学校の教授に任命され、それ以降、彼は建設分野で技術者や科学者らと仕事を始めた。

 

註1.『時間・空間・建築2新版』ギーディオン、太田賓訳、丸善株式会社、465ページ

註2.ペテルブルク国立商業銀行とも。帝政ロシアの国立銀行である。

註3. [Что придумал Шухов] (シューホフはなにを思いついたか?)Арт-Волхонка, 2016(ロシア語)8ページ

註4.[Что придумал Шухов] (シューホフはなにを思いついたか?)Арт-Волхонка, 2016(ロシア語)13ページ

註5.テクノクラートと革命権力-ソヴィエト技術政策史1917-1929」中島毅、岩波書店、1999.9.29(日本語)20ページ「当時(1870年代)には、帝国領内には軍事技術教育機関を除いて、6校(ペテルブルク鉱山高等専門学校、ペテルブルク技術高等専門学校、モスクワ高等技術学校、土木技師高等専門学校、リガ総合技術高等専門学校)の高等技術専門学校があった。」

註6.「テクノクラートと革命権力-ソヴィエト技術政策史1917-1929」中島毅、岩波書店、1999.9.29(日本語)20ページ

註7.「テクノクラートと革命権力-ソヴィエト技術政策史1917-1929」中島毅、岩波書店より「また大学内には出身地域を同じくする学生たちが集まって組織した一種の同郷集団である「ゼムリャーチェストヴォ」と呼ばれる団体も存在した。

註8.[Что придумал Шухов] (シューホフはなにを思いついたか?)Арт-Волхонка, 2016(ロシア語)13ページ

 註9.[Что придумал Шухов] (シューホフはなにを思いついたか?)Арт-Волхонка, 2016(ロシア語)13ページ

註10.[Что придумал Шухов] (シューホフはなにを思いついたか?)Арт-Волхонка, 2016、13ページ

 註.11[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)8ページ

 註12.[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi、 Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)8ページ

 註13.「テクノクラートと革命権力-ソヴィエト技術政策史1917-1929」中島毅、岩波書店、1999.9.29,(日本語)24ページ
「モスクワ高等技術学校の1890年始めの調査によれば、卒業生のうち工業分野で働いていたものが50.2%、鉄道分野に22.7%、工場監督官を含む様々な官庁の職員が10.2%、残りの16.9%は教育職についていた。この両校(ペテルブルク技術高専と合わせて)の卒業生は国家官僚機関よりむしろ私企業や教職に就く傾向があったと指摘されているが、それでもなお国家機関や自治体機関の職員として働く技師が多かったことは注目に値する。」以上引用


※上記は建築の専門家による査読を受けたものでありません。ご了承ください。

 

 

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