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東大、医学部と体験格差

 私は公立小中高と近所の公立の学校に通った、いわばそこらへんにいる子供だったと思う。

 もちろん、横浜という首都圏の大都会に住んでいた点は、受験などに圧倒的に有利だったが、父親は長崎から出てきた上京者。大卒後に東京の会社に通っていたが、東京ではマンションが購入できなかったので、横浜市南区のマンションを購入した。駅から徒歩20から30分という、なかなかな利便性のところだった。1979年のことだ。

 これが私が転校を繰り返す原因になったことは、まあ、今はかすかな想い出なのだけど、ちょっと苦い思い出だ。

 なお、母方の祖父母も同様で、祖父が東京に勤めていたので、1970年に横浜に家を買った。マンションは祖父母の家から歩いて20分ほど。私や弟の子育てに祖父母の援助を期待できる絶妙な距離だ。

 私たち一家の歩みは、当時の日本の状況をあらわしていると言える。

首都圏へと流入した人々は、住居を求めて都心部から離れて郊外へと転出した。このため、第4-2-1図でみるように、都心部は人口が60年の831万人から70年の884万人に増加したが、80年には835万人へと減少に転じた。一方、郊外では、この転入による社会増で人口が増加するとともに、彼らが子どもを産み育てることによる自然増でさらにそのスピードが加速することとなり、60年に560万人であった郊外の人口は70年に1,068万人、80年に1,449万人、90年には1,688万人へと急速に増加した118

https://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr11/chr11040201.html

 なお、晩年はその近さから、母は祖父母の介護に明け暮れた。実家が近いのもいろいろある。

 さて、そんな私だが、習い事的なことはあまりしていない。

 マンションの隣の部屋がピアノの先生の家なので、ちょっとだけ通ったことがあったが、家にピアノがないのに習う意欲が湧かず、すぐやめてしまった。

 公文式に数ヶ月通ったこともあったが辞めてしまった。小学5年生くらいのとき、近所の剣道教室に通ったが、低学年向けの教室だったので、年下の子供以下というのが嫌になってこれまた辞めてしまった。

 小学6年生のときに通った「地場塾」では成績がよかったのだが、それで虐められて、数ヶ月で辞めてしまった。

 本当に辞めてばかりだったが、長崎から上京して資産などない普通のサラリーマン家庭では、子供をそうそう習い事をさせる余裕はないだろうに、その貴重な機会を潰してしまって申し訳なかった。

 というわけで、ピアノも弾けないし、習字もそろばんもできない。スポーツもやっていない。

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