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死にたい人へ

 ある文章が私の心に突き刺さった。

 この文章だ。

たいへん言いにくいことではありますが、私は2010年の3月、33歳の時に自宅で首を吊りました。そして首を吊った瞬間、カーテンレールが折れて、一命をとりとめました。

上記記事


私は現在、大学教員ですが、その頃は、アメリカの大学院留学に挫折感を覚えて、日本に帰国していました。

ストレスからでしょうか、2009年から免疫の病気である膠原病を患い、博士論文も書けなくなり、恋人もおらず、就職先もなく、収入もなく、ステロイド剤で顔がパンパンに腫れて姿も醜くなり、当時の自分としては考えうるかぎり一切の希望が断たれたなかでの自殺未遂でした。

あのときは死ぬことしか考えられませんでした。私が10年以上すべてを賭けてきた学問の道に挫折したと思ったからです。

上記記事

 ああ、似てる、と思った。私自身、死のうと思ったことがあるからだ。

 この件は、何度か書いているし、ツイートもしている。

 他にも何個かあるが、とりあえずこくらいにしておこう。

 記事はぜひ読んでほしいなと思うが、重要なことを述べている。

今、思えば、人が死にたいと思うのは、端的に言えば「視野狭窄」、つまり視野がものすごく狭くなって、それしか考えられない状態です。自分も捨てたもんじゃない、ということがまったく思いもつかない状態なのです。

https://toyokeizai.net/articles/-/698537?page=2

 本当にその通りなのだ。何も見えなくなっている状態。これで全てが終わっているという絶望的な気持ち。

 首にザイルをかけてから25年。「未来人」の視点から見れば、あの時のピンチなんて、死ぬほどのものではなかったと思う。

 確かに就職氷河期が厳しい1998年。先が見えなかった。就職先はなかったし、受け入れてくれる研究室も見つからなかった。

 研究室の同僚は電話にも出てくれない状態。希望が見えなかった。

 けれど、まだ若かった。たったの27歳だったのだ。

 27歳の時に27歳の若さを自覚することはできない。逆にいえば、26歳、25歳よりは年寄りだと思ってしまうだけだ。

 けれど、51歳の今から見れば、圧倒的に若い。やり直しできる年齢じゃないか。

 ただ、そんなことを暗闇の中にいる人に言っても、聞いてもらえないかもしれない。

 だから、時間を活用してほしい。

 そう、いわゆる「日にち薬」というやつだ。

幸せじゃなくても、悲しくても、汚くても、かっこわるくても、それでいいんです。安心してください、それが永遠に続くということはありません。

https://toyokeizai.net/articles/-/698537?page=3

 そう、何事も永遠に続かない。それだけは分かってほしい。だから、死ぬのを伸ばしてほしい。

 どうせ人は死ぬのだ。だったら、死にたい気持ちを先送りしてほしい。その間に色々なことあるから。絶対に。

 もし1998年のあの時死んでいたら、21世紀も見られなかった。医者にもなっていなかったし、本も書いていなかった。子供もいなかった。あのドラマもこの漫画も見ることができなかった。

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