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死ぬのを延期しつづけている

いやー、暗いニュースしかないですね!
暗いことを報じるのがニュースなのでしかたないのですが、それにしても明るいニュースがない。低気圧もすごい。まったく仕事にならないので、使徒イロウルに襲われた話をしてもいいですか。(エヴァファンしかわからない例えかも……ごめん……でも最後まで読んだらエヴァ知らなくてもわかるから……!)

2017年、第二子を出産した私は、産休もろくにとらずに働いていた。(この話はもう何度もしてますね、すみません)「わたし、定時で帰ります。」の初期プロットを編集者さんに送ったのは夜中の2時で、無痛分娩による計画出産のために起きたのは5時で、分娩予備室に入ったのは8時。出産したのは17時くらい。とにかく肉体的にも精神的にも疲れた状態で育児と仕事の両立が始まった。密室にこもっていて、家族以外とはほんとんど話さなかった。結婚出産を機に接触回数が増えた親族たちは、老人うつの症状だったのか、老婆心からか、「ドラム式洗濯機に入って死んだ子がいる」など暗いニュースを見るたび、私に危険情報を送ってきていた。気晴らしに見ているはずのSNSからも「子供から目を離した隙にベランダから…」というツイートが流れてきた。
そして、七ヶ月経ったある日、希死念慮が始まったのだ。

始まった瞬間をよく覚えている。
季節は夏、盆踊りを眺めていたときだ。目の前に変なフィルターがかかった。そして脳のモードが切り替わった。
東日本大震災のときに東京に住んでいた人は覚えているだろうか。震災直後の余震や原発事故直後に襲ってきた強い不安を。直接、被災したわけではないが、津波の映像を見てショックを受け、「次は東京かもしれない」という情報が飛び交い、夜も余震が続いた。翌日には原発事故が起きたことが報道され、「放射性物質が降ってくるかもしれない」「海藻を食べろ」などと専門家がラジオで話していた。
2017年にもちろん震災は起きていない。きわめて平和だった。なのに、私は、2011年3月11日と12日に感じたのと同じレベルの極度の緊張に襲われるようになった。周りの人たちは笑っていて、悪いことは一つも起きていないのに、私だけが怖くてたまらない。嫌な予感がすごかった。「自分だけが、恐ろしいことが始まる予兆に、気づいているのではないか」「その情報は国民には伏せられているのではないか」などとも思っていた。
それが希死念慮の前兆だった。

そのうち脳が勝手に「未来のシミュレーション」を始めた。それによると、どんなルートを選んでも、私の周りの人たちはみんな死ぬようだ。それはすでに決まっていて逃れることはできない。道で妊婦を見かけるたび「どうせ死ぬのに、産むのか」などと思い、笑顔でいる彼女を見ているのが、苦しくてたまなかった。そして、「その未来がやってくる前に死ぬしかない」とか「そもそも生まれてきたのが間違いだった」とか、「こんな世界に子供たちを産んで申し訳ない」も思っていた。上の子が肺炎で入院し、下の子が川崎病になり、看病するのが大変だったが、それすら些細なことに思えていた。

ひたすら脳がつくりだした独自の「未来のシミュレーション」に怯えていた。思考をそっちに引っ張られるあまり、横断歩道を赤なのに渡ってしまうこともあった。地震対策もおろそかになっていた。そっちの方がよほど起きる可能性が高い、恐ろしい未来なのに。ここまで読んでわかる通り、危険の優先順位がおかしくなっているのだ。

今思うと、あのとき、私はおかしかった。脳に、使徒イロウルが入りこんでいたのだ。

えっ、使徒イロウルについて、そろそろ説明しろ?

使徒イロウルは新世紀エヴァンゲリオンテレビシリーズの第拾参(十三)話「使徒、侵入」に出てくる敵の名前である。この回における使徒イロウルは「細菌」と説明されている。コンピュータウィルスでもある。人類を守るために戦う主人公たちの本拠地ネルフは、マギという人工知能が管理している。それを使徒イロウルは侵食してくる。マギは三つある人工知能の合議制によって動くのだが、うちの一つ、メルキオールを乗っ取って「自爆」を提訴するのだ。この「自爆」機能はもともとネルフが敵に襲われてどうしようも無くなった時に発動させるためのものだ。

使徒イロウルはマギのその機構を利用し、まだ何も起きていないのに「自爆」を選択させ、本部ごと吹っ飛ばそうとする。もう一つの人工知能バルタザールもハッキングし、その結果「自爆」が決議されてしまう。三つ目の人工知能カスパーまで乗っ取られてしまうと自爆装置が発動してしまうので、エンジニアたちはあらゆる手段を尽くして懸命に戦う。

が、抵抗虚しく、三つ目の人工知能カスパーも乗っ取られそうになる。

がんばって自爆決議を否決しているカスパー

私にも同じことが起きていた。使徒イロウルが、私の知能のうち三分の二くらいまでを乗っ取り、「自爆」提訴から「自爆」決議までいっていた。そんな感覚があった。
この状態を「希死念慮」と呼ぶことを後で知った。

だが、全て乗っ取られたわけではない。残りの知能は「死にたくない」と思っているので、勝手に決まった「自爆」決議に対して、「否決!」「否決!」と叫んでいる。だが使徒イロウルは私に繰り返し「死ぬのが最善の選択」というプロパガンダをしかけてくる。脳の中で、最悪な未来を百万回再生くらいしてくる。寝ている間も夢として再生される。テレビだったらスイッチを切れるが、脳のなかで再生される映像からは目を背けられない。二十四時間気が休まらないので、ものすごい脳を消耗する。そうして弱っていく私を、使徒イロウルはさらに強く支配しはじめ、身体まで動かしはじめる。

有名なVTuberが、希死念慮に悩まされていた頃の話として、「窓の近くに座らないようにしていた」と言っていたがとてもよくわかる。ふわっと体が動いてしまうのだ。あとなぜか屋上に行きたくなった。その時住んでいたマンションには屋上があったが、あの屋上って鍵が閉まっていたっけ? みたいなことを考えた。使徒イロウルが乗っ取った知能が勝手に自爆する手段を検討しているのだ。乗っ取られてない残りわずかな知能は「だめ!屋上にいっちゃだめ!」と叫んでいるのだが、いかんせん多数決で負けてしまう。

著名人の自殺が報道されるたび、テレビで「命を大事に」とか「生きてください」と呼びかける人がいる。希死念慮に悩まされている人が「死にたい」と口にするからだろう。私も言っていた。でも、なぜ「死にたい」かというと使徒イロウルが脳のなかにいて、死の衝動に抗う毎日が苦しくてたまらないからだ。一年も二年も戦い続けて、疲れてヘトヘトなところに、使徒イロウルは、まるでふわふわなお布団でも差し出すように、ふわふわな死を差し出してくるのだ。あのころは死ぬことがまったく怖くなかった。お布団に倒れこみたいのを必死に我慢していた。それでも体は動いてしまう。屋上へ行きたくなる衝動を散らすため、深夜に部屋のなかをぐるぐる歩き回ったりしていた。

亡くなった人に対して、コメンテーターが「なぜ生きてくれなかったのでしょう……」みたいなことを言うたび、甘っちょろいことを言うなといつも思っている。みんな生きたかったに決まってるじゃないか。もし私が死んだとしたら、それは討ち死にだと思ってほしい。使徒イロウルに脳を乗っ取られた状態で、一年も二年も生きた。壮絶に戦ったのだ。新世紀エヴァンゲリオン第拾参(十三)話「使徒、侵入」では、ネルフ本部にいるオペレーターやエンジニアがあらゆる手を尽くして、マギを救おうとする。一度その回を見てほしい。

使徒イロウルと戦う体力を作るため、私の場合は、テレビ、新聞、SNS、すべてを遮断した。何がトリガーになって「自爆」決議がされるかわからないからだ。改札横にある新聞立てや、電車の中吊り広告も避けた。飲食店にかかっているラジオでさえ危険だった。イヤホンを耳に入れて移動するようにしていた。政治家の街頭演説が一番きつかった。「日本はもう終わりです!」「子供たちの未来はどうなるのでしょう!」と大音量で煽ってくるのを喰らってしまい、「自爆」決議がされてしまい、「否決!」を叫ぶために一日中横になっていたこともある(体力使うので)。
たまに「イヤホンを耳に入れている客がいて腹が立つ」とつぶやいている店員さんを目にするが、イヤホンを外すと危険な人間もいる、ということを知ってもらいたいなと思う。(そんな状態でも、外出して気晴らししないと回復できないのだ)

これも私の場合ではあるが、ニュースを見られない代わりに、連続ドラマを見ることを習慣化するのがよかった。その頃、大河ドラマでは「真田丸」をやっていた。三谷幸喜の大河は笑える。笑いは緊張を和らげる。「来週の展開が気になるので、それまでなんとか死なないよう耐えよう」と思えるのもよかった。「暗いニュースは見られないのに、人がたくさん死ぬ戦国時代のドラマは見られるの?」と思われるかもしれない。たしかにその頃、戦争映画は怖くて見られなかった。だが、戦国時代くらい遠くなると、さすがに他人事になる。そして戦国時代のドラマには、死と隣り合わせに生きる人たちが、たくさん出てくる。彼らがどのように心を処していったか、ということに私は興味があった。

「真田丸」で、大坂夏の陣のさなか、真田幸村が死に怯える淀君に「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」と呼びかけるシーンがある。淀君はその言葉を聞き、目に生気を宿らせる。征夷大将軍・秀頼の母として誇り高い姿を取り戻す。私は最初このシーンがよくわからなかった。だって史実では、その翌日、淀君は息子・秀頼とともに死ぬのだ。そのことを視聴者の多くは知っているし、脚本家の三谷幸喜ももちろん知っている。にもかかわらず、「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」と呼びかけるセリフを書いたのはなぜなのか。ちょっと残酷じゃないだろうかと思ったのだ。

でも、見終わった後に、ふしぎと気持ちが楽になっていた。この時の心理を説明するのは難しい。たぶんこんな風に思ったのだろう。三谷幸喜は「望みを捨てなければ必ず道は開ける」とは言っていない。そんな甘っちょろいセリフじゃないのだ。「望みを捨てぬ者」でも道が開けないことはたくさんある。なんたって戦国時代だ。望みを捨てなかったのに死んだ人の方が多いに決まってる。天下布武を成し遂げたと思われていた大名だってある日、急に討たれる時代だ。未来なんて誰にもわからない、ということをこの大河は繰り返し描いている。真田幸村の父・昌幸も、誰より望みが強かったにもかかわらず、叶わなかった望みを叫んで死んでいく。

でも、それでも、「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」なのだ。例え翌日に死ぬ事が決まっていたとしても、「ああもうだめだ」と思って残り一日生きるよりも「やれる!徳川家康に俺は勝つぜ!」と思いながら残り一日を生きる。どんなに怖くても生きる。それができたら、もう「道が開けた」といってもいいのではないか。生き残れるかどうかは天が決めることで自分がどうにかできることじゃない。それでも生きようとするのが人間であり、太古の昔からみんなそうしてきた。怖いのが普通。不安なのが普通なのだ。そんなふんぎりがついた。
三谷幸喜が「真田丸」を書いていた頃、じつは前立腺癌と診断されていたことを公表したのは、つい最近のことだ。

そのころ、奇跡的に下の子の保育園入園が決まり、一人で自由に動ける時間が増えた。睡眠時間を増やし、友人と食事に行き、自然の多いところへ旅行したりもした。精神科も受診し、医療の力も借りた。使徒イロウルは次第にその勢力を弱めていき、死を考える時間は減っていった。でも完全には消えてくれない。疲れたり、寒暖差が激しかったり、気圧が乱高下したりするたびに現れる。でもそれでいいのではないかとも思えてきた。

新世紀エヴァンゲリオンテレビシリーズの第拾参(十三)話「使徒、侵入」で、赤城リツコ博士は「使徒が死の効率的な回避を考えれば、マギとの共生を選択するかもしれません」と言った。使徒イロウルが進化を繰り返しながらマギをハッキングしてくることを逆手に取り、赤城博士は逆ハックを仕掛けてあえて進化を促進させることを提案する。生命の進化の終着点は死である。それを回避するために使徒イロウルは、マギと三つの人工知能との共生をはかるのではないかと赤城博士はいうのだ。

なんかわかる。

私のなかに生じた希死念慮は、未来への不安がトリガーになったものだ。不安があるのは、生きることへの執着が強すぎるからだ。人生をコントロールしたい欲が強すぎるのもある。だったら、私がそれをすべて捨て、希死念慮に屈して、「わかりました、死にます」と降伏してしまえば、希死念慮からの攻撃はなくなるはず。だって目的が一緒になるはずだから。
「えっ、それ危険じゃない?」と思われるかもしれない。だが、みんな気づいてないかもしれないが、人間はいずれ死ぬのだ。その時まで、なんだかんだ理由をつけて、死ぬのを延期すればいい。脳を乗っ取られたまま、使徒イロウルと共生していけばいいのだ。
死ぬのを延期している間に、本がベストセラーになったり、ドラマ化されたり、いろいろあった。人から見たら、何かを成し遂げたように見えるかもしれないけど、死ぬのを延期しているだけなので、なんだか変な気がする。

長々と書いてしまった。

なぜこんなことを書いたかというと、2017年の私と同じ状況に置かれている人が、いまたくさんいるんじゃないかと思ったからだ。コロナで誰にも会えず、危険情報だけが入ってくる。コロナだけじゃなく、戦争とか、物価高とか、電気代アップとか、大量解雇とか、これでもかこれでもかと入ってくる。「呑気なやつらよ、聞け」とばかりに「日本は終わった」とか「新しい戦前」とか、啓蒙してくる人もいる。

危機と向き合うことも大事だけど、それをやりすぎて、私みたいに使徒イロウルに脳を乗っとられてしまった人もいるんじゃないかと思うのだ。「まさにそう」って人がいたら、まず危険情報が入ってくるルートを遮断して、脳を休めてほしい。危険情報と向き合うのはメンタルの強い人に任せて休憩してほしい。

そして、どんな方法でもいいから、死ぬのを延期してみてほしい。中止しなくていい。延期でいいのだ。最初は五分でいい。次は一時間。その次は数日。その隙に精神科に行ってほしい。

使徒イロウスが止まってるわずかな隙に人工知能カスパーの内部に入り、治療を行う赤城リツコ博士

私の場合、今ではほとんど健康な人と同じ暮らしをしている。暗い気持ちでいる時間よりも、楽しい気持ちでいる時間の方が多い。
でも、希死念慮はときどき首をもたげる。しっかり食べて(特に朝ごはん)、しっかり寝て(睡眠アプリで時間を計測)、しっかり運動して(ランニング)、誰とも話さない状態を作らず、仕事ばかりしないでちゃんと遊ぶ。悲観的な気持ちになったらどれかをサボっていないかをチェック。そんな予防策をとることで、「自爆」決議までいかないように止めている。やばそうだなと思ったら早めに受診している。腰痛とつきあうようなものだ。そうやって私は生きている。死ぬのを延期し続けている。