観るべき映画は、観るべきときにやってくる。
不思議なことがあります。観るべき映画は、観るべきときにやってくるのです。映画『こちらあみ子』は、私にとって忘れたくない映画となりました。
(ここから先、映画『こちらあみ子』の内容を含みます。)
珈琲を淹れるときにいつも聴くのは、決まって青葉市子さんの音楽。そよ風にそよぐカーテンのようなやさしい音が、こだわりの時間に寄り添ってくれます。そんな存在の彼女の投稿を見て知った『こちらあみ子』という映画は、予告編を観てすぐに虜になり、公開日を今か今かと待ち構えていました。
原作は、祖母宅で穏やかに暮らしているところから始まるので、シビアなシーンが悲しくても、ハッピーエンドに向かっていると信じて読み進めることができました。しかし、映画では原作ほどあみ子が可哀想ではないものの、祖母宅での暮らしが幸か不幸かわからぬまま終わります。
朝早く目覚めたあみ子が、裸足で寝巻きのまま、転がり落ちるようにどこへとも無く進んでいく映画オリジナルのラストシーン。映画『こちらあみ子』を観る二日前、絶望の海に溺れていた私は、ここでないどこかに行きたくて裸足で寝巻きのまま、転がり落ちるようにどこへとも無く進んでいました。大通りに辿り着き、行き交う車をぼんやりと眺めていたあのときの私。海を眺めるあみ子が二日前の私に酷似して見えて、思わずあみ子に「やっと幽霊のところに行けるよ。がんばれ!」と応援していました。そしたらそこへ運良く幽霊たちも現れ、あみ子に向かって手招きします。「みんないるからこわくないよ!よかったね」しかしあみ子は幽霊たちに手を振って、誘いを断ります。私は何で?と思いました。裏切られた気持ちがしました。やっと楽になれると思ったのに。でも最後にあみ子は言います。「だいじょうぶじゃ」その笑顔を見て、はっとしました。あみ子に生きていてほしい、そう思いました。
死についてばかり考えていた私に残ったこの感覚は、いつまでも忘れたくない特別なものとなりました。あみ子に対して抱いた生きていてほしいという思い、ずっと失っていたこの感覚を私に対しても抱けるような気がしてきて、今このタイミングで観ることができたのはとても不思議です。
観るべき映画を観せてくれたこの世界のことを少し好きになりました。観るべき映画を手繰り寄せた自分のことも肯定してあげたいです。
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