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『トラペジウム』呪術が作ったアイドルユニット

観てきました。いろいろと賛美両論な映画みたいですが、私の感想は上のような感じで、補足的にここに書いておきます。

主人公の東ゆうちゃんは、アイドルになるという目標のため、『住んでいる地域の東西南北から一人ずつ美少女を集め、アイドルユニットを結成する』という行動を起こします。なぜ東西南北なのか? というのは当然の疑問ですが、そこは説明されませんし説明してはいけません。なぜなら『東西南北縛りを課した仲間を自分の足で集める』という行為は、多分に呪術的な側面を持つからです。
呪術は直接目標に影響を与えてはならず、一見して意味不明の行動を起こさせます。今作では東西南北仲間集めのことで、それは呪術師が土地それぞれの要石を巡るようなものです。

ユニット名が『東西南北』というのは、おそらくジャニーズのNEWSモチーフでしょう。NEWSがNoth、East、West、Southの頭文字を表し、グローバルに飛躍するという意味を込めているのに対し、『東西南北』はマジで自分が東西南北から人をかき集めたという『実績』(努力と言い換えてもいい)が内包されています。
この実績は呪術的な”縛り”であり、それによって事実、新米アイドルの東西南北はトントン拍子に成功の階段を上がっていきます。東ちゃんのリーダーシップが功を奏したわけではありません。知り合いになったADが『東西南北』の呪術を面白がってくれ、たまたま知り合いの事務所に入れてもらえ、たまたま他メンバーが同調してくれて一時的な波に乗れただけです。

東ちゃんにアイドルの素質はありません。これは作中で繰り返し示されていることで、そもそも彼女が行っているのは、アイドルというよりプロデューサーの真似事です。しかしどちらにしても、『目標に対してまっすぐすぎて、大きなものを取りこぼしすぎる』のは確かです。
メガネ写真家の真司くんが「制服好きなんです」と言った時に「うえー」って顔をしたり、のちのイメージアップのために登山ボランティアに参加したとき、4人1組でないことに露骨に不平を漏らしたり、観光ボランティアで思ったようなTV映りでなかったために代表のおじいちゃんの連絡を絶ってしまったり、東ちゃんは『今のうちからアイドルとしての振る舞いをしておこう』などと殊勝なことは考えておらず、とにかく最速でのデビューを至上命題としているのがわかります。神の視点たる観客にはそれがすべて見えているので、彼女のことは『上辺すら取り作れていないワナビ』と映ります。

しかし、『東西南北』は一応のステップアップを果たすのです。これは呪術が功を奏した結果です。東ちゃんの行動だけ見れば、『4人でアイドルを目指したい』という目標をいつまで経っても言わない、デビュー曲の歌詞を4人で分担すると勝手に決めてしまう、彼氏バレした亀井ちゃん(北担当)に心無い言葉を吐く、歌が苦手という華鳥ちゃん(南担当)に心無い言葉を吐く、もともとの性格的にアイドル向きでないくるみちゃん(西担当)が限界を迎えたときに心無い言葉を吐こうとする(未遂)、とリーダーどころかメンバーとして未熟であるのがまざまざ描写されます。

東西南北は表面上はステップアップしているのに、描写は彼女たちの転落を示し続けているので、観客はそのアンビバレンツに引っかかりながらついていくことになります。私はこの話が挫折を描くものだと開始20分くらいで気づいてそのモードで鑑賞しましたが、『どうかちゃんと失敗してくれ…』と半ば祈りながら観ていました。

そんな一見ダメダメな東ちゃんが曲がりなりにもステージに上がれたのは、最初に書いたように、東西南北を巡礼して呪術を為した結果です。
これは、『祈り』と言い換えることもできます。悪い言い方にするなら、『無駄な努力』です。
彼女は最初ソロでデビューするためオーディションを受けましたが、軒並み落ちてしまった。だから、『真っ当でない』方法でデビューするため、東西南北の巡礼を思い立った。
このアホとしか言えない行動力が、呪術の根幹です。幸か不幸か、それは功を奏し、TVにレギュラー出演するところまで行ってしまった。ですが、所詮は人の手に余る力のため、他メンバーを繋ぎ止めることはできず、チームは瓦解してしまった。

東ちゃんは呪術に頼り、それがなまじ成功してしまったのが不幸でした。本来なら、正直にアイドルユニットを結成したいと話し、くるみちゃんの適正を慎重に測り、東西南北の組み合わせを売りにするという合意までコミュニケーションを取る必要があった。地味で苦労が多くて面倒くさいコミュニケーションこそが、彼女たちに最も必要なものでした。
しかし実際は、東西南北の縛りが逆にメンバーの流動性を許さない枷となり、東ちゃん以外のメンバーのモチベーションを黙殺し、『誰かが嫌がったとしても、この4人でのし上がって行くしかない』という自縄自縛を強いられる結果となりました。

これが呪術の反動です。

『東西南北の美少女を自分の足で集める』という行動は、『アイドルとして成り上がる』ためには無駄な努力でした。むしろ、結果的には自分の首を締めていたのです。

では、東ちゃんが3人を集めた努力に意味はなかったのか。これはそうではないとはっきり描かれています。
彼女たちは東ちゃんにとってかけがえのない友となり、10年後の未来でもその関係は続いています。東西南北の巡礼は『アイドルユニット結成』という点では無駄でしたが、『親友を得る』という観点からは大きな意味があったのです。くるみの口からも、「女の子と仲良くなれたのは初めて」という言葉がありました。

ただ、しかし、この映画は95分です。

その時間に対してメインキャラクターは4人。率直に言って、全員のキャラが掘り下げられているとは思えません。特に、華鳥ちゃん(南)がかなり厳しいです。よくある金持ちお嬢様キャラで留まってしまっているのが非常に惜しい。
亀井ちゃん(北)も、小学生のころイジメられていて、東ちゃんに助けられたのを心の支えにしていたと語るシーンがあります。だからこそ、東ちゃんがTVのインタビューで自分たちが「ボランティア仲間」だと語るのに怒ったわけですが。
このへんの心の動きは、あとから考えればわかってくるレベルではあります。が、やはりちょっと弱い。個人的にはライブパート全カットしてでも心理描写を増やしてほしいところでした。

逆に、東ちゃんの描写はかなり秀逸です。
上述のシンジくんに対する侮り感、チームメイトを落としたと確信したときはわざわざ指を折る、不安、決意などの心理にあるときは左手で首筋を触る癖があるなど、画面から拾える情報が非常に多い。
この『主人公に力を入れて描写する』という普通なら当然の演出が、この作品に限っては『性格の悪い主人公の欠点が悪目立ちする』という働きをしているのが皮肉な感じはありますが。

総括として、何を描いた映画だったのか? という考察は、『輝く目標に糊塗されたエゴとコミュニケーション不全とまっすぐな猛進のもたらす何か』であるとして変わっていません。

アイドルになる夢は敗れたが、大切な思い出と親友は得られたといっていいでしょう。

しかし、その前提で、東ちゃんは芸能界に舞い戻ってしまうのです。

たまたま受けたオーディションをパスしたというインタビューの発言が本心かはわかりません。このときの彼女は、観客に見られていることを意識しているはずですから。

今度は東西南北ではなく、1人の人間として、芸能界の荒波に飛び込んだわけです。
もちろんこれはスタートラインに立っただけであって、この先ふたたびの引退で終わってしまうかもしれません。

ただ……うーん、どう言ったものか。

映画のテーマが『輝く目標に糊塗されたエゴとコミュニケーション不全とまっすぐな猛進のもたらす何か』だとして、その答えは『大切な友達、思い出、そして芸能人としてのスタート』になってしまうわけです。

突然ですがリアリティラインの話をします。

リアリティラインとは、物語の要素がその作品にふさわしいかという判断基準のラインを示します。
たとえば現代日本を舞台にしたミステリ作品で密室殺人が起きたとして、『実は犯人は超能力で殺した』という真相が明らかになった場合、『現代日本で起きうる現象』という観点のリアリティラインが大幅に下がってしまうため、お話として成り立ちません。
これが、物語冒頭で誰もが普通に超能力を使う世界であることが示されている場合、作品世界のリアリティラインが修正されるため、超能力殺人は問題なくお話に組み込めます。

リアリティラインは作中の時間経過で変動することもあります。
上の例で試してみると、前者は『作品冒頭では普通の現代日本だったが、途中でなぜか全人類が超能力に目覚めた』リアリティラインが低くなる変動。
後者は『作品冒頭では全人類が超能力を使えたが、途中でなぜか使えなくなる』リアリティラインが高くなる変動。

どちらもぶち壊し感はありますが、どちらかというと、後者のリアリティラインが高くなるほうがマシに思えるはずです。
前者は『それを言い出したら何でもアリじゃん』という感情が湧いてくるからでしょう。

リアリティラインは、途中から上げることはできても下げることはできないのです。

ここで『トラペジウム』のリアリティラインを見てみます。

東ちゃんは華鳥ちゃん(南)の学園を訪れ、テニス部にスパイ扱いされ、華鳥ちゃんと対戦することとなり、その試合中彼女を「お蝶夫人」と呼んだことがきっかけで友達になります。この出会いはまったくの偶然であり、彼女が超金持ちであるのも(ある程度学園の性質から予想できたかもしれませんが)狙ったわけではありませんでした。
そのおかげで、くるみちゃん(西)のロボットは華鳥ちゃんの家のプールを利用して開発することができ、結果的にロボコンに入賞することができました。

序盤はかなりリアリティラインが低いです。そもそも呪術で始まった関係なので、リアルなはずがありません。
東ちゃんの性格が悪いのも、リアリティラインの低さに拍車をかけています(リアリティラインは科学的正しさ以外にも、『こんな奴おらんやろ』というキャラ造形にも影響するため)。

その後亀井ちゃん(北)と合流し、東西南北の符号に注目され、芸能界へ少しずつ進出していき、そしてついに初ライブ。このあたりが序盤のリアリティラインを継承した最後のパートです。

その後、くるみちゃんの限界発言、メンバーの不和と、坂道を転がり落ちるようにストーリーは暗澹としてきますが、それと反比例するようにリアリティラインは上がってきます。
東西南北巡礼という、誰がどう見てもおかしい呪術行為は芸能界という強風によってメッキが剥がされ、『まあ現実はこんなもんだよね』という諦めに収束していきます。

その中で、亀井ちゃんの「東ちゃんがヒーローだった」発言や、4人で考えた歌詞がとうとう形になったことが、ささやかながら眩しい光として映画を輝かせているわけです。
このささやかさが尊く、リアリティラインが上がりきった『トラペジウム』の世界で許される救いとして非常に印象に残っています。

しかし。10年後、東ちゃんはふたたびアイドルになってしまうのです。

そのとき彼女は25歳。正直、リアリティラインは序盤のレベルにまで下がってしまいました。
あのささやかな救いは何だったのか。この展開にするなら、やっていることがかなり中途半端です。
上がったリアリティラインを再び下げるなら、10年後ではなく30年後にデビューくらいにしてほしい。そこまでやってくれるなら、『どうしても追い続けるしかない光への情熱』という別種の文脈が発生して、それはそれで面白くなります。

エピローグが完全に蛇足だとは思いませんが、かなり邪魔でした。
写真家になった真司くんも、文化祭で撮った写真を登場させるためのキャラクター扱いになっている感じで嫌でした。この写真も、星空テーマの個展に置くには適切ではなく、被写体の4人に同意を取っていないという点でリアリティラインが更に下がっています。

端的に言って、構成が美しくありません。最後にタイトルを回収したのが逆につまらなくなっている。
写真の中の『10年後の自分』を実現したのは東ちゃんと、そして写真を撮った真司くんだけです。
なぜこの2人なのか? 作品テーマを考えるなら、真司くんはプロになってはいけなかった。もしくは、東ちゃんは芸能界に復帰してはいけなかった。エゴイストで暴君の東ちゃんと、献身的で控えめな真司くんが同様に夢を叶えるのは、欲張りすぎです。

『トラペジウム』は、甘い呪術にすがって一時の夢を見た未熟な若者が、現実に足を掴まれながらもひとつまみの輝きを得る話です。
彼女たちに与えすぎないでほしかったし、リアリティラインを最後に急激に引き下げる野暮はしてほしくなかった。

と、いろいろ語りましたが、私はこの作品大好きです。観客側に負荷を与えてくるタイプの映画なので。


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