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記憶のいれものにフックを

どうしても忘れられない奇妙な1枚の写真があります。
去年の夏のある日の午後、ちょっと散歩でもしようと、まだ慣れないフィルムカメラを片手に、まだ慣れない東京のある街を歩いていました。どこかの国の大使館の建物の前を通りかかったとき、その白壁の表面でちらちらと揺れていた木洩れ日がほんとうに美しくて、高ぶる気持ちを抑えつつ、ゆっくりと一度だけシャッターを切りました。塀の向こうの大木の下、ざらざらとした壁の凹凸に映る光が深く印象に残りました。そのときの僕は、濱田さんの言葉を借りれば、まさに「世界を見つけた」という誇らしい気持ちになったいたのだと思います。

さて、なぜこの1枚が奇妙なのかと言えば、これがプリントとしてもjpegとしても存在しない写真だからです。存在しないのに1枚と呼ぶのもおかしいですが。フィルムカメラの扱いに慣れていなかった僕は、フィルムが正しく巻きとられておらず、しかもそれに気づかないという初歩中の初歩のミスを犯し、大事に大事にシャッターを36回空振りさせていたのです。(気づいたときはかなりヘコみました)それなのに、不思議と僕はそのうちのいくつかの写真を、プリントしたお気に入りの写真と同じくらい、その構図や色をリアルに思い描くことができます。

ここに、プロフェッショナルでない僕たちが写真を撮ることの理由と意味を考える大切が手がかりがあります。(純粋に楽しいから撮っているというのは大前提として)
写真を撮ることは、夏祭りのヨーヨー釣りの風船にフックがついているように、ひとつひとつの記憶のいれものに何か「ひっかかり」を与える作業だと思っています。何かに心を動かされたとき、フィルムを巻き上げてファインダーを覗く、構図を決める、露出を調整する、ピントを合わせる、最後にシャッターを切る。その一連の所作によって、対象の大きさや形、空間の広がり、光、音、温度、湿度など、心を動かされた理由となる要素を無意識に分解・分析し、互いに結びつけています。そのひとつひとつの要素が、後に大きな記憶のプールに釣り糸を垂らし、それぞれの記憶を引き上げるためのフックとなるのです。この作業を通して、僕たちは自分にとって大切なものを想い起こし、もう一度はっきりと知ることになります。

この木洩れ日の1枚によって、実体としての写真がなくてもその風景を記憶に残すことができると知ってしまったわけですが、この場合は自分のためのフックに自分自身が引っかかっているに過ぎません。そもそも、カメラを構えなくとも鮮烈に記憶に残る風景に出会うこともあるでしょう。ではなぜ写真を撮るのか。フィルムを巻き上げていなかった僕は、写真の持つもうひとつの役割である、眼差しの提示、つまりどんなふうに世界を見ているか、どんな世界を見つけたかを他者に示すことはできませんでした。しかし、写真としての表現を洗練させていくことによって、このフックは自分だけでなく他者に対しても働きかけるものになります。

人は写真を見て、撮影者が設えたひっかかりを知覚することで、直接経験したことのないそれを「懐かしい」や「美しい」と感じるのだと思います。時には撮影者が意図していないひっかかりが潜んでいることもあるでしょう。人は誰でもその人固有の世界の見方を持っています。そのうえで、写真を生業としているような方は、その眼差しの伝え方が研ぎ澄まされている人たちなのかなと勝手に思っています。

自分自身の大切なものを見つめ直すために、そして人に自分の世界の見方を伝えるために写真はあり、そのきっかけ(フック)として写真の表現技法があるのだと、あの木洩れ日を想いながら考えています。

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土木と写真とデザイン。