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若者と日本の大衆文化

ある日の夢に自分の祖父が出てきて、若者が読む雑誌や聞く音楽を煙たがっていた。

祖父がなぜそれらを煙たがっていたかは定かではないが、恐らく若者特有の何も考えずに(祖父からの視点であって実際はそうとは言い切れない)それらにすがるような姿勢を馬鹿馬鹿しく感じたのかもしれない。

それを見た自分は無意識のうちに若者の文化やその素晴らしさを祖父に対して説いてしまっていた。

若者の文化がどのように作られているのか、どのように変化しているのか、この先どうなっていくか。そしてその魅力や素晴らしさについて。

頭の中には何も浮かんでいない。でも口からは次々と言葉が出てくる。もしその状況を客観的に見ることができたら、その時の自分はとてつもなく目を輝かせていたのだと思う。

大衆文化が若者たちから生み出されるのはどの時代も同じであるように思う。そこには単純に文化の内容が魅力的であるから、人々に良い影響を与えているからなど様々な理由がある。

自分の考えるところでは、恐らく若い時期は人間は将来への漠然とした不安などから逃げ出してすがったり、それらの不安や葛藤を全て忘れて没頭するための手段の集合体が文化なのではないだろうか。

それに触れている間は、何もかも忘れてひたすらに自身の内面や文化と向き合うことができる。多くの若者がそれぞれの抱えている不安や悩みと闘いながら、一心不乱にそれぞれのやりたいことを突き詰め続ける。苦しく辛い困難の中でこそ、文化(音楽や絵画などの芸術)が光として我々を照らし、我々もまたその光を追い求めて夢中になれるのだろう。

このように考えると、文化というものはのっぺりとした刺激のない世の中では発展しないように思える。もがき苦しみ、思い悩まざるを得ないような理不尽な社会が存在していることで、文化もまた一層の輝きを放つのではないだろうか。

これだけ聞くと、文化が発展することは皮肉なことのように感じるが、私はそこに美しさを見出せると感じている。

所謂「人間臭さ」である。

人間から作られたものである文化は当然のことながら人間らしいものになる。そこに人間臭さが生まれてくる。ある部分は完璧なのにある部分は未完成で、大胆で雑な一面もあれば驚くほど繊細な一面も待ち合わせる。

このような不揃いで不確定な文化だからこその魅力があり、それが人々を惹きつける。日本の文化は人々が大きな社会の中で各々の様々な状況と闘いながら作り上げた芸術作品のようなものである。これを繰り返すのも、一度壊して作り直すのも、全く新しいものを生み出すのもすべて私たち若者である。

文化を担える若者でありたい。

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