国葬上めろ

note再開します

noteは以前使っていたことがあり、多忙やらなにやらでしばらく休んでいたのだが、やはりまとまった文章を書きたいときにTwitterの文字数制限はかなりの制約なので、今回久々に再開することにした。

まあ前置きなんかはどうでもいいのでとっとと本題に入ろう。この記事のタイトルに掲げた文言についてである。

例の画像について

例の画像を改めて見たい人や知らない人は下記リンクを参照のこと。
https://www.google.com/search?q=%E5%9B%BD%E8%91%AC%E4%B8%8A%E3%82%81%E3%82%8D&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjtncvz95D5AhVaeXAKHWR4AyUQ_AUoAXoECAEQAw&biw=960&bih=568&dpr=2&tbm=isch

今回の一件は安倍晋三元首相が参議院選挙の期間中に凶弾に斃れたことに始まる。その後、安倍氏の国葬を9月に執り行うことが閣議決定された。
この件の是非だとか、「ある特定の宗教」だとか、政治家安倍晋三の善悪だとか、そういった思想面・内容面に踏み込むつもりはない。筆者が問題として取り上げたいのは、その国葬を是とする人々と、非とする人々との間の、いつものインターネット上での争いについてである。その「非とする人々」のものであるとされる画像がインターネット上で拡散された。掲げ持つ段ボールのようなものにはこう書かれていた。

国葬上めろ
安倍に税金使うな

該当の画像より

「止めろ」(やめろ・とめろ)の誤記であることは一目でわかるような、くだらない画像である。
この画像は(主に国葬を是とする人々によって)さかんに拡散され、一時はTwitterのトレンドにもこの文言が見出しのように踊った。

ここで筆者が問題視したことは、その拡散に加担している人々の内心である。すなわち、「止」という漢字も書けないような人(それは注意不足な人かもしれないし、知能の低い人や、あるいは「漢字を日常的には使わない隣国の国民」を意図しているのかもしれない。人種や国籍にレッテルを貼ることには賛同できないが。※この件につき後述)が国葬反対派であって、だから反対派の主張はオカシイと考えることが自然なのだ、という考え方である。全員がその意図で言及したとは限らないが、少なくともそういう意図で拡散している人が少なからずいることはTwitter上をこの記事のタイトルで検索してみればすぐにわかるだろう。

未知なるものに説明を付して克服しようとする性質

さて、いったん少し眼前の問題から離れることをご了承いただきたい。

人間は(クソデカ主語)、知らないことに理屈を貼り付けて整理することが得意な生き物である。気象や海象、地震等の天災から疫病に至るまで、実に様々な「手に負えない」ことに関して、それらを「手に負える」存在(=人間よりも優れた存在)を想出し、その上位存在の怒りや人間に対する試練として天災等の現象が起こっていると説明した。そして、正しく祀ることで怒りを鎮めることができると説いたり、最後には我々が救われると信じたりすることによって、そうした現象を「知らないこと」から「説明できること」に転換していった。
逆の例も挙げておくと、知らない民族や文化と接触した際、それらを劣ったものだとみなすことで、それらを「未知の恐怖」ではなく「未開の蛮族」として扱い、精神的に克服していった。これも同様の行いである。

つまり、その理解が正しく真実を反映しているかについて検証するという過程を経ずに「そういうものなのだ」と説明し、あるいはその説明をストンと「理解」してしまう能力(というよりはむしろ「性質」「傾向」と言った方が適切か。)を、人間は多かれ少なかれ持っているということだ。
この人間の性質が「〇〇人は劣等種だから根絶する」や「〇〇人が侵略を企んでいる」といった扇動に使われてきたことは読者もよくご存知のとおりだ。人種や国籍にレッテルを貼ることは実に容易なのであるが、これには理由がある。サンプルが少ないからだ。
一例を挙げよう。もし読者が鎖国下の日本にいてコーカソイドを全く見たことがないとして、初めて来航したポルトガル人を見たとき、その個人から知り得た情報を個人のものだとして批判的に検証できるだろうか。ポルトガル、あるいはヨーロッパ全体が「そういうものなのだ」という短絡的「理解」の方へ行かないと自信を持って答えられるだろうか。

貼られたレッテルの伝染、社会的論調の形成、炎上

これは人種や国籍についてだけでなく、主張や信条を異にする人に対しても起こりうる。「自民党支持者は〜〇〇である。」「アンチフェミは〜」「地球は平面だと主張している人は〜」といった具合で、自分の観測したごく一部のサンプルをもとに、自分の属さないグループの全体にレッテルを貼り、「理解」したことにしてしまうのだ。

そして、作られた神話のストーリーや宗教の教義、そして人種や主張で括られたグループに貼られたレッテルは、伝染しやすいという厄介な性質を持っている。誰かがストンと「理解」したものを、別の人もそのまま「理解」してしまう。これが大規模に行われることで社会的な論調(風潮と言い換えても良い。)が形成されていき、炎上や差別という問題を惹き起こすのである。

警戒すべきは、そのレッテル貼りという社会的論調形成行為を意識して行う不届者がいることにある。
「白人って日本人と比べて頭悪そう」というように、偏見をただ述べるだけでも十分に論調形成効果は見込め、そうした言説が広まっていってしまう可能性を孕んではいるが、こちらはあくまで偏見であることが明らかであるため、後述の連中と比較すればマシなケースであると言えてしまう。
世の中には更に悪い「自分が批判したい対象グループの一員にあえてなりすまし、そこで露悪的な態度を取り続けてインターネットで存在感を発揮することで、そのグループ自体への批判的な論調を形成する」という手段が存在し、これは巧妙なだけに非常にタチが悪い。更にこの場合その本人のもとに対象グループを批判する罵詈雑言が届くが、これは本人の内心意思に非常によく合致するため、本人にとってはそのなりすましアカウントが手厳しく批判されたり中傷されたりすればするほど快感を得られるという捩れた構造になる。そのうえ、より過激なことを言ってより炎上すれば、インターネットメディアに取り上げられる等してより多くの世論に晒されることになるため、過激さは増していく傾向にある。これは非常にタチが悪い(2回目)。

まとめ

閑話休題。
今回話題になっている画像について筆者が本記事の冒頭で言及した文章を再掲する。上に書いた文章を踏まえて読んでみてほしい。

(安倍晋三元首相の国葬を)「非とする人々」のものであるとされる画像がインターネット上で拡散された。

本記事の冒頭より

うむ。拡大倍率を上げてみよう。

(……)であるとされる(……)

😇

筆者の所見の説明はこれで十分だろう。本件をどう捉えるかは読者に任せる。少なくともこの件に関しては筆者の考えすぎ(ただ単純に国葬反対派の個人のおっちょこちょいさんがやらかした誤字)である可能性もあるため断言は避ける。しかし、上述したように、レッテルを貼るためのサンプルというのは「ごく一部」の非常に少数、というかたった一人でも足りるということを肝に銘じた上で接する必要があることは確かだ。

筆者が危惧しているのは、肯定派と否定派がオープンに正々堂々議論する機会が減少していき、つまらないインターネット上の偽装工作で大勢が操られることだ。理解が及ばない人にも懇切丁寧に説明して本人の真意を汲もうとするのではなく、誰にでも「理解」しやすい論調(例えば、国葬反対派は「止」の字を誤記するような人間(ばかり)だ、といったもの)を作り上げ、そこに巻き込もうとする作為ないし悪意が罷り通ることだ。民主主義が各自の思考を反映するためのものでなく、少数の人間による大規模票の操作合戦に成り果ててしまうことだ。

卑怯な連中は存在する。そうした連中に騙されない、〇〇の画像であるとされているものが本当にそうなのか疑うことができる人たれという注意喚起をもって、本記事の結語とさせていただこう。

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