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プレイバック週末-ちょっとまじめ編-


楽しかった編とどっちが先かな?と考えた結果、先にまじめなことを。
内容としては
・伝承館
・双葉
・双相地区へのきっかけ

です。

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#原子力災害伝承館
9ヶ月ぶりのステージinなみえ道の駅初日にMCさんによるアナウンスで翌日にオープンなのを知り、行ってみる。
うけど漁港を超えて少し走ると何も無い土地に大きな建物、そこが伝承館。
入り口をくぐりチケットを購入後列に並ぶ
(オープニングの映像事情があり、入場は15分に一度)
開演(開場?)のあと広い部屋に通され、吹き抜けの壁を利用した震災映像。
その後大きな螺旋階段を上がるのだが、壁には当時の写真が並ぶ。
正直思った。
あぁ、ディズニーランドの作りだ。
長い階段を登り、「中」の順路へ入ると空間音響?のようなシステムを交えているのか
映像と資料、展示物が所狭しと並ぶのだが、説明などの音響が横に広がらずに縦(正面)だけとなり
うるさ過ぎず、静か過ぎずだった。
写真などは撮影不可だったため内容は割愛するがいろいろ興味深いものはあり
あの時の東京の新聞やニュースと現地のそれとは全く違った情報が流れてたことに驚いた。
(メルトダウンとか全損避難とか4月とか5月くらいから聞き出したような)
展示物の後半部分
「放射線・被爆に対する考えは?」とのデータ資料が少し肩身狭く端っこに置かれているのが物凄い気になった。
県内の方々の当時と今の考え方の違いや、逆に県外の方々のデータは?など、少ない資料の中で考えさせられた。
訪問当日は時間の関係で語り部の話は聞けなかったが
後日、その語り部に関しての記事を読んだ。
自分としてはどうでもいい。
肯定も、否定も、
どちらか側だけの意見を聞くのは非常に厄介で
話し手の熱量や思いに左右される気がする。
良い意味で、この資料館は階段を登り「中に入れば」無機質で無感情で
当時の報告資料、流されたもの、データ、やったこと、やることなど冷たく展示してあったように感じた(だからこその最初のディズニー感が違和感として現れた)
1時間ほど中にいたのか
外へ出ると空が眩しく、キッチンカーの匂いが嫌でも日常を感じさる。

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#双葉町
伝承館を後に少し南を散策する
何ヶ月か前に駅が再開して前よりも少し制限の解除された街
双葉町を走る。
地震が起き、津波から避難して、原発の大事故で強制的に避難させられたその時のまま時が止まっていた。
道は陥没し
家は潰れて
残る家は荒らされ
洗濯物が干されている家もあった
双葉の学校があり
お馴染みの放射線カウンターを見ると
0.4マイクロシーベルト
おぉ!高いねなんて思って少し裏に入ると
2.1マイクロシーベルトを計るカウンターと遭遇。
この町の除染は今から始まり
インフラの復旧
生活の再開
町の再興はまだまだ先の話だ。

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#双相地区に関わるきっかけ
そんな町を眺めながら考える
なんで自分はここにいるんだろう?
2011年3月11日
あの日自分は家にいた。
当日関東地区の敬老施設を周り、健康体操やちょっとしたショーなど披露して
丁度次の現場の準備のために家に帰り一息ついていた中
あの地震が起きた。
#東日本大震災
あまりの大きさにベランダから飛び出した
その時はまだ生きていた爺ちゃんに
「ごめん!助けれない!」と声をかけ
「若いのが生きろ!」と後押しされ飛び出した
(そんなじいちゃんは数年後に他界、90歳近くになってわしゃ死ぬ気がせん!と豪語するファンキーな爺さんだった)
テレビをつけると津波
押し寄せる津波
海の上の炎
日常とかけ離れた映像
赤く光る日本地図
混乱する世の中
日に日に変わる状況
そんな中、イベントに対しても制限がかかって来た
「電気を使うな」
「盛り上げるな」
「東北の人は誰も笑ってないから自分たちも笑わないで自粛しよう」
この言葉はいまだに忘れない。
逆に、この言葉があったから福島へ行った
「現地を自分の目で確かめよう」と思った。
当日、笑顔を届けようの掛け声と共に
エンターテイメントを相馬に届けるグループがあり
自分も参加した
2011年10月29日
初めて福島県へ足を踏み入れる。
#相馬はらがま朝市
…文章が長くなって来た
そして終わらないので一度区切る。
ここからしばらく
相馬はらがま朝市に関わることになり
「笑顔を届ける」と始めた関わりが
「自殺を辞めるきっかけになってほしい」と言葉をいただき
相馬から南相馬へ
南相馬から浜通りへと旅を続ける
「エンターテイメントを楽しみにしてる人を1人でも増やし、
もうちょっとすれば面白いの見れるから少し我慢しよう!と思ってもらえる。
そうやって、人が生きるきっかけになってほしい」
その言葉があったから、今の自分があるのかな。

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