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映画『女神の見えざる手』

『女神の見えざる手』という映画を観た。

会話スピードと内容の難しさについてくのやっとだったが、主人公ヒロインのアイアンレディーっぷりになんとか引っ張ってってもらい。おおーっ!っとなる展開で、面白かったんだが。引っ掛かるものがあったので。翌日、もう一度観た。
観終わって、半日を費やすくらい考え込んでしまった。。

あらすじはこうだ。

ヒロイン主人公は、病的なほど仕事に没頭する、やり手のロビイスト(政治的に呼びかける仕事してる人)。
ある日、全米ライフル協会の会長(のようなお偉いさん)から、「銃規制されないよう、女性票を増やしたい」と仕事依頼を受ける、が、これを一笑。勤めてる大手の会社を辞め、チームを引き連れ小会社に移り、反対に銃規制支持に乗り出し。真っ向勝負。という内容。

「ロビー活動」って耳にしたことはあれど、政治に疎いおれのようなもんは、そんな職業があること、それが実際何やるのかすら知らずに見ていた。

冒頭のセリフにソクラテスが出てくる。「人々を惑わしたとして、罪を問われながらも。不条理な体制に反論し、信念を貫く」という映画の内容を暗示している。

手段を選ばず。人々を巻き込んで。起訴されながら。腐敗した体制をひっくり返すため、何が何でも勝利を目指す頭脳戦。

銃乱射事件の当事者だった部下も利用して、世の声を動かしてゆく。

アメリカの仕組みをよく知らないのでちょっと難しいものの、半沢直樹的エンタテイメントとして楽しめる。

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さて。ここから。以下の文、これから観るって人は読まないでもらいたいのですが。

今なお現在進行形なアメリカ銃規制の問題を取り扱いつつ、戦う女性の大逆転劇、というだけでも、「どうやって?」の部分で十分楽しめる映画ではある、が。

「この映画すげぇ」となった一番の部分は、「どうして?」の部分なのです。

どうして、この女性は薬飲んでまで仕事に没頭するのか。どうして、投獄されてまで勝利を目指して戦ったのか、

「どうして?」が映画内では、ほぼ触れられていない。どころか、焦点すら当てられていない。意図的に排除してるのではないか?とすら感じ。

その暗がりに目を向けると、「この人、過去に何かあったんじゃないか?」と。

銃がらみの事件と何か因縁が?と。

部下が高校銃乱射事件に居合わせた生徒だと調べたんじゃない、元から知っていた、と仮定すると。

やはりこのヒロインは、同じ銃事件の被害者なのではないか。

明らかに、映画内でモデルにしてるのは1998年のコロンバイン高校乱射事件と思われる。

実際の事件を調べると、亡くなったのが、容疑者の2名、生徒12名、そして教師1名。

ヒロイン主人公は、亡くなった生徒の母親だった?もしくは教師の配偶者だった?という明かされない設定が?

まさか加害者の母親?贖罪のための戦いか?というのも浮かんだが、映画内での細かいやり取りを見るとそっちは無いかなと。。

今も子供いない独身だから、おそらく配偶者の方か。。と、これはあくまでも推測で、ヒロインが戦う動機は一切明らかにされない。

でもところどころの仕草、セリフ、表情。

おれがアメリカの仕組み知ったるアメリカ人なら、もっと細かいとこまで気づけるかもしれんが。

部下が当事者だと指摘したこともそうだし、

ライフル協会会長の提案に爆笑する、や、

「幸せな家庭をイメージする」ため男を買う、

など、事件の被害者だったのなら腑に落ちることがいろいろある。

そして、そうであっても本人は一切言わない。それを公表したら不利に働く、と見たのか、被害者として立たせた部下とのバランスからか。ただ自分の心が抉られそうで怖かったか。たぶん勝つために「被害者側の人」と取られるのを避けた、というセンが強いと見た。

そんな描写は一切無いが、冒頭に触れていたソクラテス。

自分では何も書かずして死んだソクラテスと、それを表した弟子のプラトン。

この歴史の関係性が、主人公と部下の関係までをも暗示していたのではないか。

もしそうなのだとしたら。

この映画は、勝ち負けのゲームをエンタテイメントとして見せ、その根っこにある心の部分は観る人の推察に委ねられている。

ストーリーを描く上で、一番大事な「心」の部分がすっぽり抜けているのだ。観る側が、想像して作り出したピースをはめ込まないと、全体が完成しないっていう。

観客を信じて、一番大事なところを委ねる。その勇気。観る側への信頼。計算。その余白。すげぇーなと。

こういった作品の真意をこうして暴くこと自体、無粋、とわかりつつも。誰かに言いたくなっちゃうよなーこういう秘された真意って。

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一点。銃乱射事件を引き合いにしてエンタテイメント作品を作る、他にも、実際の事件からインスパイアされた作品、悲しい事件を扱って作品を作り、興行収入を得る、というものはたくさんある。

遺族からしたら、そんなもの観たくない、というのは当然わかる。

でも、愚かしさには何らかの形で働きかけないといけない。

フィクションの力でリアルな世界に影響を与えられるのが、歌や物語のすごいとこじゃないか。というわけで。

あくまでもこの映画が、そういった働きから作られたフィクションだというのは、観ればわかる。

結局何が言いたいのかというと、こんだけの長文を書かせるエネルギーを持った映画だった、ってことです。

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